2010年9月11日土曜日

「大和」王権の布石

「大和」王権の布石                   川村一彦著

一  はじめに

二 乙巳の変
① 蘇我一族の終末の道
② 蘇我打倒計画
③ 決起

三 大化改新と難波宮遷都
① 皇継の模索と孝徳即位
② 律令国家への道
③ 遷都

四 斉明女帝と石の都
① 斉明女帝重乍
② 石神遺跡と石像物の謎
③ 有馬皇子の悲劇
④ 東北政策

五 白村江の戦い
① 伝説上の神功朝鮮出兵
② 白村江の道
③ 出兵決意
④ 白村江へ出航

六 近江大津宮への道
① 近江遷都
② 国土防衛と戦後処理
③ 近江大津宮

七  壬申の乱
① 大海人吉野へ脱出
② 大海人の決意
③ 近江大津宮滅亡

八  天武帝の政策と人となり
① 天武の人間背景
② 飛鳥に還都

九  持統と藤原京
① 大津皇子の失脚
② 藤原京への道
③ 飛鳥浄御原令

十  「大宝律令」と和銅
① 律令国家への道
② 持統の死と首皇子誕生

十一 平城京への道
① 元明即位
② 国内平定
③ 平城京遷都

十二 不比等から橘諸兄 
① 長屋王の頭角
② 北宮王家と木管
③ 長屋王政権

十三 聖武と光明
① 聖武の人となり
② 仏教への帰依

十四 藤原四兄弟から橘諸兄
① 藤原四兄弟の台頭
② 天然痘大流行
③ 東北政策と四兄弟の死
④ 広嗣の乱

十五 迷想遷都の巡行
① 謎の巡行
② 恭仁宮
③ 国分寺の配布
④ 遷都の決意

十六 総国分寺と大仏造営
① 大仏造立への道
② 聖武帝の世界観と華厳の世界

十七 孝謙と仲麻呂
① 聖武の晩年
② 大仏開眼
③ 橘諸兄から仲麻呂
④ 淳仁天皇即位
⑤ 道鏡の台頭と押勝の失脚

十八 称徳と道鏡
① 道鏡の出世
② 称徳の功罪
③ 道鏡天皇への道
④ 白壁王の天皇即位

十九 光仁から桓武へ
① 天智系光仁天皇
② 山部親王擁立
③ 桓武即位と川継の失脚
④ 種継暗殺事件
⑤ 新都平安京への道

一 はじめに

大化元年(645)飛鳥時代に蘇我三代稲目、馬子、蝦夷に王権は封じられて、皇極三年六月十二日、乙巳の変で中大兄皇子と鎌足の計画により、入鹿が打たれて王権の復権がなされた。
以後平安京に遷都されるまでの、百五十年間は波乱に混乱の中日本の国家の骨格を成す重要な時代でも有った。皇極、孝徳、天智、弘文、天武、持統、文武、元明、元正、聖武、孝謙、淳仁、光仁、桓武の十四人の天皇と五人の女帝と二回の重乍、異例尽くめの政変、飛鳥から難波宮遷都、再び飛鳥に、そして近江大津宮、そして飛鳥浄御原宮、大藤原京に、平城京へそして恭仁宮、紫信楽宮と点々として遷都されて、平安京に至るまでの間に、皇権と政権を巡る戦いは、次の時代に打たれる「布石は新たな物語を、喜怒と盛衰の、間に間に、繰り広げられていった」百五十年と言った凝縮された時代を振り返って、歴史は私達に何を伝えようとしているのか、振り返ってみたいものだ。



一   乙巳の変

① 蘇我一族の終末への道

大化元年(645)六月十二日古代史上稀に見る一大事件が起きた。
大化改新のきかっけになった乙巳(いっし)の変であった。
それは倭国の王権を脅かすほどの蘇我一族の馬子、蝦夷、入鹿の三代によ
る、権勢を誇る蘇我の傲慢さと暴挙から端を発した。
われわれは古代を思いを巡らせる時、その限られた数少ない資料、記述
の中から、イメーイジと推測を重ねながら評価し判断しなければならない。
一般的には飛鳥時代に深く関与しつづけた蘇我一族の軋轢だと思われる。
それは大陸文化導入派と、反対派の争いに思える。
勝利者であった蘇我一族の政治権力の固定化に対しての王権の巻き返しと
も受け取れるが、蘇我氏以外の豪族の暗黙の支援が在ったのかもしれない。

もともと蘇我氏の影響の歴代の天皇(大王)の擁立で,欽明天皇は稲目の皇脈とそれ以外の非蘇我の後継者を選択しなければならなかた。
それも想定外の大事件が起きた、蘇我系の次期皇継と目されていた皇子山背大兄王を入鹿は抹殺してしまったのである。
入鹿の思いのままにならない山背大兄王を危険を冒してまでに思われるが、入鹿には他に選択肢があったのか、中大兄皇子か古人皇子か、そんな先々の思惑より稲目、馬子、蝦夷、と続いた栄譽、栄華に築きあげた蘇我一門のエレートの「おぼちゃま」だったのか、傲慢で無鉄砲で感情のままの人間だったのか、世間知らずと言えば世間知らずだった。

山背大兄王も無防備だった、予想外だったのか、不意を突かれた突如の襲撃に充分の手も打てず、皇極二年(643)斑鳩宮に襲撃を掛けられたが,王家の応戦も空しく炎上し、一旦生駒に逃れ臣下の体制を整えて領民をもって戦うことを進言するが、話会いを求めいぇ解決を図ろうとしたのか、皇極天皇の取り成しを期待したのか、結果入鹿の聞く耳持たぬまま、斑鳩宮は包囲され上宮一門は自決し果てて滅亡をしてしまった。
この間朝廷はことの成り行きをどう見ていたのだろうか、見て見ぬふりの暗黙の了解があったのか定かではない。
では何故に、入鹿は蘇我系の皇継を抹殺しなければならないのか、皇極の後継に何か策でもあったのか、三人の皇継に中大兄皇子、古人皇子の何れかへの皇継も布石でもあったのか、
舒明天皇が没して中継ぎの皇極が即位してまだ二年したっておらず何故次期天皇の一人の山背大兄王を抹殺しなければならなかったのか、単なる入鹿の性格かそんな利害関係より、王権に代わってと言う思いがあったかも知れない。
こうして、上之宮家が滅亡して、皇極の皇子の中大兄皇子はどんな思いで見ていたか、母の天皇を蔑ろにして皇族内の粛清は王権を無視しての暴挙でしかなく、後継のライバルの失脚は手放しでは喜べず、次は自分に降りかかる疑念があった。
蘇我三代稲目、馬子、蝦夷そして入鹿になって王権と臣籍の境を越えたことがなかった。
此の襲撃を聞いた親である蝦夷は激怒したと言う、
「お前は何という愚か者か、何時かお前も打たれるぞ」
といって警告をしたと言う。
これを機に諸豪族が蘇我から離れて行ったようだ。
*上宮王家について考えて見た場合、太子亡き後、継嗣の山背大兄王が拠点とした所が飛鳥より北西の大和、河内の交通の要所に斑鳩宮が設けられ、太子亡き後、朝廷の王権の一角を成すような存在だった。他の王家と比べ蘇我系の血脈が注入された王家はない、母が稲目の娘穴穂部間人皇女、祖母も曾祖母も蘇我系の娘だった、そういった人々が上宮乳部を形成していた。
入鹿の襲撃の大義名分は一体何だったのだろうか、また其の暴挙にたいしての,諌めや責任を問う天皇の示唆が無かったのだろうか。
黙認することは朝廷の権威の弱体化いがいに考えられない。

上宮王家を滅亡の後の入鹿は頂点になって行動する。
翌年、飛鳥甘樫岡に蘇我邸を建て回りを城壁の様なものを設け要塞化し、私兵を配備し、他の豪族とは違いをみせ、専制独裁の準備を進めた。
蝦夷邸は「上の宮門」、入鹿邸は「下の宮門」と自ら称し、自分の子達に王子と名乗らせたと言う。
また天皇にのみ許された越権行為を堂々とやってのけた。それは天皇にだけ許された雨乞いの儀式をやったという。
入鹿の儀式には雨は降らず、天皇は降ったと言う、また越権行為をされても責めは無く、もう一件こう記されている。
国内統治において、越(越中、越前、越後、)の蝦夷の入朝に、朝廷の謁見の儀式が行われたが、そのあと三日後に蘇我邸で同じ儀式が行われたという。

入鹿にしてみれば王位に順ずる地位に上り詰め後は夢に見る皇位だけだったが、その野望は露骨に現れたものが上宮王家への襲撃であった。
そんな蘇我三代に渡り築きあげてきたものが滅亡するときがやってきた。

② 蘇我打倒計画

大化元年(645)六月十二日に起きた、乙巳の変であった。
記述によればこう伝えられている。
その事件の鍵を握ったのは、中臣鎌足で仕掛け草案者であった、中臣氏の家業は代々祭祀をもって朝廷に仕える一族で、古代神道の神人とでも言えるかもしれないが、鎌足は家業を嫌って病と称して、三島(大阪高槻、茨城付近)に引きこもっていたという。
早くより政治に関心を持ち、中大兄皇子に接触できるまでになっていたのだろうが、その経緯は不明である。
そこで考えたのが、非蘇我系の皇継者を探して模索していた処、中大兄皇子に的を絞り会う機会を待っていたのだろう。
鎌足は、余程入鹿に憤慨し不満を持っていたか、出世意欲で千載一隅の機会を待っていたかもしれない。
年齢的にはまだまだ若い、次の天皇と目されていても今入鹿を討たねば二度田機会は巡ってこないだろし、上之宮家を倒した事には各豪族は決して快くは思ってはいないだろう。
そう踏んだ鎌足の思いは秘密利の内に綿密な計画と実行に踏切った。

ここから中大兄皇子と、鎌足と、石川麻呂が出てくるのだが、後世に脚色されたのだろうが、大まかな筋書きとして,三者の思惑が一致していたのだろうか、
たまたま飛鳥寺の境内での蹴鞠(この頃に蹴鞠が行われていたか?いささか疑問が残るが)の催しがあって、劇的な出会いこそ中大兄皇子と鎌足であった。中大兄皇子が木靴で鞠蹴った処、抜け落ちた木靴をうやうやしく差し出す場面から始まる。
話はその折にその靴の中に素早く鎌足の思いをしたためた文を入れたのだが、なかなかうまく考えたものである。
未来を期待された、「プリンス」中大兄皇子と老練な鎌足の政局に入鹿を打つべく作戦とその思いが綴られていた。
皇子の思いを確認した鎌足はもう一人重要人物を中に入れないと進めることが出来ないと思い、打診する其れは蘇我一族の一人蘇我倉田山石川麻呂であった。
蘇我の傍流に本家に不満を持つ者がいないか模索する内に、分家筋にその石川麻呂を仲間に加えることに成功した。
これで蘇我入鹿包囲網が出来上がった、打倒計画は綿密に練られていくが、飛鳥時代の鍵を握る石川麻呂については謎が多い。

いったい石川麻呂は何者なのかということである、記述には父倉麻呂と同一人物といわれる説と、倉麻呂の子とする説がある、この場合は入鹿の甥になり、その後出てくる連子、赤兄、日向、は誰の子かとなってくる。

ともかく石川麻呂は蘇我本家を裏切る程の何かがあったのかもしれない。
其れも入鹿の粗暴さにあるとなれば、うなずける、まさに身内からも見放された、暴君に慎重に事が進められた。

そんな反蘇我包囲網に重要な人物として鎌足は石川麻呂を取り込む画策として、攻略結婚として石川麻呂の娘の長女を中大兄皇子の妃とすることを進めた。鎌足自身が仲人として中大兄皇子、石川麻呂の合意の元に婚約を交わす前に、蘇我日向が石川麻呂の娘を連れ去った。
おそらく蘇我の分断を阻止する為だったか、蘇我家の危機を知ってか、其の時あえて次女の遠智娘が進んで中大兄皇子の元にいくことを申し立て、中大兄皇子の妃になった。
石川麻呂の為に身を呈して妃になった遠智娘は気丈で家運の為に嫁いだのである。其のあと大田皇女、妹の持統天皇を生む事になる。
これこそ次の時代を左右する、大きな血脈の布石になったのである。

この入鹿打倒計画は短い期間で出来たのではない、三年から四年は要しただろう、強権入鹿を討ち損なった時は身の危険は必死である。
綿密に積み重ねられた計画は、主人公中大兄皇子十九歳、此の時大田皇女も持統も生まれていた、そして演出者鎌足は三十一歳であった。

③ 決起

記述によると物語りはこう伝えられている。
入鹿斬殺計画は内々的に練られ宮廷での、三韓進調の日の儀式に決定された、石川麻呂が「三韓」の国書を「皇極天皇(大王)の前で宣読する役で、無論入鹿も左大臣として出席する。
そこで佐伯連子麻呂が切り込み一太刀を浴びせる手はずが、なかなか出てこない。
その内石川麻呂の読み上げる声が震え冷や汗が流れ、不審に思った入鹿が尋ねた。
「どうして震えているのか」
石川麻呂は「大王の前で恐れ多く緊張しているのです」
そばを取り繕ったが、なかなか切りつける者がいない。
それも其のはず、入鹿の権勢の前でその威を恐れて斬りつける者は、一介の者に出来るわけが無い。
見かねて中大兄皇子が、気合をいれて
「やあつ!」と斬りつけた。子麻呂も続いて斬りつけた。
不意を突かれた入鹿は驚き立ち上がろうとすると、またもや斬りつける。
横暴と傲慢で君臨してきた入鹿は、玉座まで転がり土下座をして命乞いをした。

その惨劇を見て皇極は
「一体何事だ」と中大兄皇子に尋ねた。
中大兄皇子は
「大王家を滅ぼし、王位を傾けようとしております。」と訴えた。
余りの突然のことで何も言わず殿中にはいってしまった。
この後子麻呂がなおも斬りつけ、ついに入鹿は絶命折に降りしきる雨の中、宮廷の庭の入鹿の遺体に筵が掛けられた。
これを一部始終見ていた古人大兄皇子は
「韓人が入鹿を殺した」と謎めいた言葉を残し私邸に引き篭もった。
中大兄皇子は王族、官人を率いて飛鳥寺に陣を引いて、蝦夷らの反撃に備えたが、この時点で皇極の了解を取り付けていたのだろう。
川を挟み、目と鼻の先の蝦夷の拠点の甘樫の岡の豪族達は反撃の姿勢を示したと言うが、ここに高向国押の説得で断念し、蝦夷の自決で事態は終結した。
この「乙巳の変」で長きに渡り権力を握っていた蘇我一族は一掃されて王権に再び戻ったといのであるが、多少の記述の編纂で手を加えられたとしても、王権の弱体化が蘇我の強権を造ったといえるが、次に起こる、政治、国家枠組みに、中大兄と鎌足の大きな布石だった。

我が子の起こした大事件に狼狽したのか、その後皇極天皇の黙認したのか処分や沙汰は無かった。
そして次の時代へと大きく舵は切られた。

二 「大化改新」と「難波宮遷都」



皇極四年(645)
乙巳の変で蘇我一族は四代に渡り政権を思うままに関与したが、中大兄皇子を中心に鎌足らの突然の決起によって蘇我本家は一掃された。

そしてこの混乱で中大兄皇子に譲位しようとしたが。
中大兄皇子は鎌足と相談しこれを辞退した、蘇我を倒して自ら王位に就けば単なる王位欲しさの「クーデター」としか受け取られない、あの乙巳の変の大儀名分が立たない。
また消極的な譲位も各豪族に権威の無さを露呈すだけだった。

① 皇継の模索と孝徳即位

そこで中大兄皇子と鎌足は皇極天皇の弟の軽皇子を推挙した。
血筋的には何ら問題は無いが、これもまた軽皇子も断り、舒明天皇の皇子で中大兄皇子の異母兄の古人大兄皇子を推挙した。
だが古人大兄にとり皇位どころではなかった、今や蘇我系の皇子であった古人に取り後ろ盾の蝦夷、入鹿を失ったので身の保安の点で安泰というわけにはいかなかった。
断ったのは当然の話で、法興寺で髪おろし、僧となって吉野に身を潜めた。

皇極は弟の軽皇子に推挙し皆がそういった雰囲気の中、軽皇子の受諾で決まった。
いわば成り行きの状況のなか慌しく乙巳の変の翌日に即位の儀式が行われ、こここに晴れて孝徳天皇が出現した。
蘇我馬子から六十年そう権勢の残存勢力を一掃できるものではない。

孝徳天皇の即位はいわば条件付、次期天皇は中大兄皇子お決まっての即位だった、皇太子中大兄皇子、倭国始まって以来の左大臣に長老格に阿部内麻呂、右大臣に蘇我石川麻呂、内臣に鎌足に、側近に旻法師、高向玄理といった布陣であった。

孝徳天皇在位約九年間の政策、政変は大化改新と遷都そして中大兄の王権の布石であった。
大化元年(645)十二月、都を難波長柄豊崎宮への遷都する。
翌年改新の詔が宣する。
この重要の二件が乙巳の変の僅か半年間で矢継ぎ早に決定された、これは強力な皇権への布石だった。

遷都は詔が発せられてもそう簡単に出来るものではない、計画から完成まで規模によって違うが二、三年で宮廷が徐々に移転し完成まで六、七年は掛かろうというものだ。
遷都は孝徳の飛鳥からの、刷新を意味し、大化の改新は体制の変革で中国大だ陸の文化の影響も大きかったのだろう。
それより孝徳天皇の強い指導力と理想の実現への意志表示だったかもしれない。

まず律令宇国家へと続く大化改新についての評価は様々であるが、理想国家への枠組みは重要な問題であった。
其の概要について見ると。

②  律令国家への道

五つの法令
一番目、東国の、国司を任じ「国家所有公民、大小所領に人衆」、国有の公民と地方の豪族や国造の私民の合わせた全人民の戸籍を作ること、校田、田の面積の調査で国勢調査である。
畿内での実施には抵抗があったのか東国から始められた、要はどれだけの人間の数と、田畑の面積を調べて税の取り分の算出を考えていたのだろう。

二番目に、王都を中心に大和六県の整理して、使者を出して造籍、校田を命じた。高市、葛城、十市、山沿いの六県の造籍、校田、の公地、公民を明確にして地方へ波及させる政策である。

三番目に、鐘櫃の制を置く、これは下級役人などを、自分の族長や伴造の裁定に不服のある場合直接朝廷に訴えられるもので、なを朝廷に不服のある場合は、鐘をならしその裁定に訴えるもので、直訴をしても咎めないと言う理解のあるもので、民主的で民意を反映させるもので、いわば孝徳天皇の民衆の受け狙いで、人気取りの政策であった。

四番目に、男女の法、男女の法で云っても身分差の取り扱いについの規定である。
子供が生まれた場合、どちらに帰属するかについて、良男と良女のの子は父につける、良男と卑女の場合は母に付ける、良女と奴婢の場合は父に付ける、、厳しい身分制度の中生まれた子は身分の低い方に付けることになっていた。
奴婢、隷民と幾つ者身分の段階があったようだ。

五番目に、十師、寺院を統制するために、寺司、法頭を定める。
この時代は少しは寺院もあったが、まだまだ一般的に信仰されていた分けでもなく、儀式、儀礼的な色彩が強く王族の祈願や、豪族の氏寺としてのものが多く、僧を規定する意味での法であった。

こういった五つの法令が、大化元年(645)八月に発令された。

翌年の一月元旦に「改新詔」が発令された、この日本の史上に重大な出来事とされる「大化改新」が事実上っ実行されたかは信憑性に疑問が残るが、また大宝律令に影響を与えたかについては評価は分かれるが、奈良時代の律令の土台になったのではとおもわれる。
改新の詔の四カ条とは

第一条(カキやヤケ)の廃止、昔の天皇が立てていた、子の代の民、処処の屯倉と、部曲の民、処処の田荘の廃止、大夫以上のは食封、官人、百姓のは布帛を与えた。
* これは旧体制の廃止で、地方などの自治を規制し、中央集権を意図する政策である。天皇、王権に管理下におき、役職、役割に応じて物品を支給するものである。

第二条 京と地方の支配の制度、京師の制と、機内の国司、郡市、防人、駅場、駅制、設置である。
* これは大宝律令の基礎となる部分であるが、五機七道の制度の無い時代京と地方の区分けの意味があったのだろう。

第三条 旧来の賦役の廃止と、田の調の実施。
* 農民の労働の課役から、田による収穫による税収、また官馬、兵器、采女の賦課法を定める。

大化二年一月に発令された四か条からなる「改心の詔」と、前年八月に出された五項目の発令との関連性について考えた場合、孝徳、中大兄、新王権の気運が発足来、急速の始まり、五項目の発令は、そういった意味で序文的な色彩が強い。

その後次々と打ち出されてくる。
三月に東国国司の政策を評定する。東国に派遣された役人、国司の業績を評価するものである。
官司の屯田を中止させる。これは役人として派遣させた者が開墾し私田を作る事を禁じたものである。こういった、私有田を禁じて、公田にすることを自ら進んで中大兄は
所有する屯倉を朝廷に、国に献納し国造、豪族に其の意を示した。

八月、品部の廃止、冠位制、男身の調(みつぎ)の制を命ずる。
九月、「任那」の調の貢進を禁じる。
翌年大化三年、品部の廃止に伴い、庸調を支給する詔をだす。
十二月、七色十三階の冠位を制定をする。
翌々年大化五年二月、冠位十九階位を制定し、官司を置く。

こうして改新は断続して試行錯誤をしながら発せられ施行されていった。
元号が大化に定められて以降、活発な国家体制の構築が進められ、階級、税制、伝達方法、情報伝達、流通、交通整備なで、人と田の調査、地方と王都、豪族と王権の枠決め、中央集権と、統制なで大事な国家の骨格と成す部分を制定されていった。

記述の編纂が脚色されたとしても、この大化の改新は飛鳥時代において活気的なものになったことは間違いは無いだろう。
何よりそういった気運が生まれたことには間違いが無いだろう。

ではこの大化の改新はでういった過程で作成されていったのだろうか、この条例のはつれいはの草案は、唐の国家体制や条例に詳しかった高向玄理の作成する学者集団の存在があって、唐を参考にされて作成されたのであろう。
その採択について、右大臣、左大臣を通じて、中大兄皇子から孝徳にといった風に手順で発令されて行ったのであろう。

③  遷都

改革と同時進行していったのが、重大な遷都であった、飛鳥より都を移す、難波の宮への遷都であった。
これは孝徳の強い意志によるものだと推測される、遷都先は二百年前の仁徳ゆわれの地、難波の地、いまの上町台地である。
自然の要塞、大和盆地の王都より難波の入り江は唯一のの、内海から大陸への交通の要である。
かって聖徳太子が西暦五九三年に四天王寺を建立、堂々と西に向かって建つ、朱塗りの伽藍と五重の塔は渡来人を迎え、交易船が行き交い、大陸への玄関だった。
南北に四、五キロ、東西に二キロ、足らずのこの上町台地南の端に四天王寺があって、北の端に難波長柄豊崎に遷都が決定された。

遷都が決められたと言っても、直ぐに遷都が出来るものではない、造営に三,四年から完成に十年はかかるだろう。
その間は急遽小郡を仮の宮とした。
遷都の詔が出されてから六年後にほぼ完成といったところで白雉二年(651)
の大晦日に孝徳天皇が遷居した。

その大きさを「殫く論うべからず」(悉くいうべからず)と記され当時の宮殿としてはかってない規模の宮殿だったのだろう。
* 現在の発掘で前期難波の宮と、後期難波宮聖武天皇との区別は難航を極めたが徐徐に解明されつつある。
前期は瓦が一切使用されておらず、掘っ立て柱の建造物であるが、其の規模や王宮、皇族、役人らの住居跡のの規模は分かっていないが、朝堂院の大きさからその全体の大きさが推測されて、上町台地の狭い所にひしめきあっていたことだろうと思われている。

かってない朝堂院は東西二百三十メートル、南北二百六十メートル、其の内部は十四堂以上の朝堂(庁)が並び、内裏南門を隔てて天皇の住居する(宮殿)がある。
朝堂院の各役所の
中央に朝廷があって、日々の行事、儀式、会見などあって孝徳天皇が王権に就いていた僅かな年月を統治していたのだろう。この難波の宮に遷都に関しては孝徳の強い意志が働いき指導力を発揮していたことは間違いがないところだ。

このころ中大兄も母の宝皇女も表面だっての動きもなく、静観していたのだろう。
何故孝徳は即位と同時に遷都をしなければならなかったのか、大和での旧勢力に対する払拭にあったのではないだろうか、思ったような政治を目した孝徳に取り、如何に中継ぎと言われても即位後に意欲が芽生えても致し方がないところである。
また難波の地を選んだのかについて、まずその立地条件にあったと思われる。この地に於いてはかって河内王朝の仁徳朝の折も、難波の上町台地だった。内海に面した入り江で交通の要として、大陸に対しても、国内の東北政策にも、大和盆地の要塞の比べ、一歩前に踏み出すものであったに違いがない。
またこの遷都の造営に支配地からの徴用は、一万から二万人は必要だと思われる。
いずれにせよ国家大事業だと言えるだろう。

孝徳朝の大化改新と遷都の二大事業が進められていく中、変動、衝撃的事件が起きたのである。

④  二人の失脚


蘇我一族一掃の後、儀礼的に王権の後継に打診された、古人大兄の失脚事件だった。
これを断り蘇我本家の後ろ盾を失った古人大兄に取り、決して身の安全と言う訳でもなかった。
法興寺で髪を下ろし僧となり吉野山に身を隠し隠遁生活に、謀反の嫌疑がかけられた。
王権に意思表示したが、親王権を牛耳る中大兄がそのまま見逃すわけがなかった。
一旦嫌疑がかかって助かったものはない、密告は吉備笠臣垂の自らの自首によって謀反の計画が発覚した。
この計画には蘇我一族の蘇我田口臣川堀や、漢氏一族の倭漢文直麻呂らが加わっていたとされ分かり、そして謀反者の首謀者は古人大兄と分かり、直ちには断罪されて、古人は、ここで失脚し惨殺されて幕は下ろされたが、不審なことにそのご、一味に加わっていて密告した吉備笠臣垂が功田二十町歩を与えられた。
他に加わっていた朴市泰造来津も後に中大兄に重用されたと言う。
後年一般的には中大兄が仕組んだものと思われている、だがそういった事件にはめられた古人の隙が、後に仲間割れと言うことになって終結しているのである。何れにせよ古人も中大兄とは異母兄弟なるが上に皇位継承に近いが上抹殺されたのであろう。

続いての事件は乙巳の変で最も重要な役割りを果たした、蘇我石川麻呂が突然に失脚したのである。事の経緯は、大化の改新と遷都などで政権の重鎮として、長老格の左大臣阿倍内麻呂が死亡した直後に事件が起きた。
大化五年(649)左大臣阿倍が亡くなり、其の葬儀が盛大に行われ、その葬礼の儀に孝徳天皇自ら出席し難波宮の正門から、朱雀門に行き哀悼の意を表し執り行われた。
その葬儀の十日後のことだった。蘇我日向が中大兄に向かって訴えた。
「石川麻呂が中大兄皇子を殺害しょうと機会を狙っています」
それを聞いた中大兄は何の疑いも躊躇なく、そのまま孝徳に伝えた。
この事件で変なのが乙巳の変で石川麻呂と中大兄の結びつきを深めるために石川麻呂の娘を中大兄に嫁を継がせようとしたときにその娘を浚い邪魔をした張本人こそ密告した蘇我日向であった。
血で血を争う同族内は手段を選ばなかった。直ちに天皇は使者を差し向け虚実を問い糾した所、石川麻呂は
「天皇の御前で申し開きをしたいと」訴えたが、これを天皇は許さず兵を差し向けた。
一度嫌疑をかけられて疑いの晴れた例の者はない。

石川麻呂は覚悟を決めて、難波を逃れ大和に向かった。
そして飛鳥の山田寺に入った。
山田寺は長男興志が、蘇我石川麻呂の氏寺として造営中だった。
興志は来襲して来る軍勢に向かって、迎え撃つことを提案するが、石川麻呂これを許さず、金堂の前で首をくくって自殺をした。
妻子八人もこれに従い、この事件で二十三人の死罪と十五人が流罪と成った。
石川麻呂と言えば、中大兄の妃に娘の猿智娘を送り、大田皇女、持統が生まれ、次の娘蛭娘も嫁がせ、元明が生まれ、その後の奈良時代を左右する人々を輩出する鍵を握る人物であった。
歴史の権力の中に埋没したが、中大兄に取りむしろ、疎ましい人物の一人でもあった。
皮肉にも石川麻呂は傍流として、蘇我本家の消滅に一役買い傍流に生きたが、本家の生き残りの異母兄弟の日向に裏切られて失脚するのも皮肉なことである。

白雉三年(652)かってない大規模な難波宮が完成したが、翌年に大事件が起きる。
中大兄が突然に、新宮を捨て飛鳥に戻ると言い出したのである。
これは孝徳も許さなかった。
しかも前天皇の宝皇女と、孝徳の妃間人皇女(中大兄の妹)や大海皇子まで引き連れて強引に飛鳥に帰ってしまった。
孝徳のその時の驚きは計り知れないが、最愛の妻まで孝徳を裏切って、中大兄や宝皇女に従ったことに強い衝撃を受けただろう。
そして臣下の大半も去り、難波宮に残された孝徳の孤独な寂しさは、心身共に疲れ果てたのか、失意の内に、翌年の十月に亡くなった。
しかも孝徳天皇の葬儀の祭礼もどのように成されたかは定かではない。
孝徳が亡くなって翌年の一月に難波宮ハ焼失、孝徳の思いと共に消え去った。
何故孝徳は中大兄や宝皇女などに見放されて孤独に追いやられたかは、即位の時点から見ても所詮中継ぎの天皇でしかなかったことにある、難波に遷都しても古き大和の影響と、その柵は払拭できなかたのである。


三  斎明女帝と石の都

① 重乍(ちょうそ)

斎明元年(655)一月、難波より還った宝皇女(皇極天皇)は再び飛鳥板蓋宮で即位をした。
日本の歴代の天皇で再度王位に就いた重乍したのは初例だった。
皇極天皇として飛鳥で即位して三年余り、蘇我本家の権力の支配下で、思うような政治や統治が出来なかったが、あの時とは状況は変わっていた。
難波より還ったことは、馴染み深い大和で再び王権に意欲が燃えて次の本格的

孝徳が難波で抱いた政治に、王権の確立に、理想の王都建設に、希望が。
宝皇女は即位し斎明天皇となった、時、斉明天皇六十二歳、中大兄皇子三十歳、大海皇子二十五歳、中大兄の娘の持統(大海皇子の妃)は十一歳、壬申の乱の悲劇の皇子大友は八歳であった。

斉明天皇六十二歳の老いてからの即位で、重乍でもあった女帝は、益々気丈に数々の政策に取り組んだ。
その斉明の足跡を見ても、国内制圧、国外への出兵と事業、興事好きだったようである、まず手始めに王都宮殿の工事に着手をした。

近年、飛鳥時代の発掘調査で祭事、興事好きであったことが判明してきている。そのお陰で人々は重圧で疲弊していて評判も芳しくもなく、その足跡から推測されつつある。
飛鳥に還った斉明は、皇極時代と状況が違っていて周りの取り巻きの人々も変わっていた。
夫の舒明天皇を無くし即位した時は四十九歳だった。その時は並み居る蘇我一族の重鎮の暗黙の示唆に、思った政治は出来ず、皇極自身が中継ぎの天皇であったが、今は後継者として中大兄皇子を見据えての政権である。

ところが斉明が即位したその冬に板蓋宮が焼失した。近年飛鳥の王宮は岡本宮、板蓋宮、も浄御原宮も同一とみなされていたが、伝承板蓋宮辺りにで少しづつづらして造営し移り住んでいたことと思われてきている。
以後、多武峰に両槻宮、吉野宮の離宮を造っている。

② 石神遺跡と石像物の謎

また実際にどう活用されたかは知れないが、何箇所かの運河を掘っており、王宮への運搬用の運河と推測されている。
興味本位の一種の道楽的な「狂心の渠」(戯れ心のみぞ)と呼ばれる運河も存在していたようだ。
権力の誇示か、都としての整備の一環か、何の意味で掘ったのかはっきりはしていない。
また他にも石像物が残されていてどういう、理由で造られたかについては解明されていないものが多く、今後の謎解きはかなり物的な証拠が必要であろう。
西暦1992年の発見された「酒船石」については、用途不明で、その形が何の意味を持つかも分かっていない。
その後西暦二千年、亀形の石造ぶつが発見されたがその北側に、わが国最古の「富本銭」が出土したのも驚きであった。
また飛鳥池遺跡は「石の山丘」として「書記」の記述の符合するが、それらが興事、祭事好きな斉明が祭礼にぎしきになどに用いたとすれば、仏教や道教の影響があって、神仙思想や、須弥山の世界の思想も当時ではかなり知られていたのかもしれない。
須弥山石の外に「石人像」が庭園の噴水石用として、表現豊かな石の細工石が発見されて、飛鳥一帯に石像物、石積みの遺跡が多い、この辺りが石神遺跡なのである。

この石神遺跡が斉明朝で最も特別な場所であったらしく、回廊と幾つ物の建物の配置があって、石敷きと井戸の遺溝があって、その横辺りに中大兄皇子の水落遺跡がある。

ここが我が国始めての水時計である。
実際に漏刻を使用し、鐘と鼓で時を知らせていたかは疑問だが、限られた場所にだけ伝えられていたとすれば、石神遺跡辺りが時間を知ることの出来る重要な場所だったのかも知れない。

こうして斉明は次々と王宮とその関連施設を建立し、石造物を造っていった。
人は「狂人の渠」とか、その振る舞いに揶揄するが、老女帝は震い立たせたものは、難波宮での遷都をした孝徳の政策など間じかに見て奮起させたのではないだろうか、孝徳の新都構想を再び飛鳥に、新たな飛鳥新都構想が芽生えたのかもしれない。
飛鳥に戻った斉明は自ら持つ国家像、天皇像(大王像)を重ね合わせて、斉明の理念として、威厳に石像物、運河(渠、堀)事業などを着手していったのだろうが、その一つ一つに意味が込められて行ったのではないだろうか。

孝徳の目指した都と、盆地に四方やまに囲まれた自然の要塞とは、まったく対照的に異なっていた。
そこで斉明は石の都の発想に展開させていったのではと思われる。
まず両槻宮、吉野宮の離宮から、周囲の小高い丘や峰々の山間に沿うように飛鳥川が流れ、石と水、石造物と渠(運河)そして優雅な噴水石を設けた庭園など、儀式と祭礼跡が謎に秘められて、何かを物語る。
倭国の王として「現人神」の権威を国内外に知らしめるためにも、石神遺跡の宮廷に要人たちを招きいれたのかも知れない。
例えば倭国に征服された、東北の蝦夷や、九州の隼人、アイヌの人々に従属の意を表させるための儀礼的場所、大陸からの使者を受け入れる施設、迎賓館のような場所でもあったのだろう。

斉明元年には、越の蝦夷と東の蝦夷が約二百人入朝し、翌年には百済の使者の八十一人が、調を捧げて来朝した。
新羅も人質の弥武と十二人の技術者を送ってきて、朝廷の威信は、国外的にも高まり、斉明朝の初期の外国は順調であった。
こういった大陸からの使者達に朝廷の権威を知らしめるには、多様な演出工夫がなされ、国内向けには、各豪族に、王族に重臣に対して、地方の国造や役人に「石上の丘」の施設で、たとえば亀形石像物や方形池、井戸など特定の神格化された聖地に人々を集め、神聖な禊(みそぎ)の儀式を執り行い、須弥山や道教の神仙世界を取り入れて、倭国の揺ぎ無い王権を「宣下」していたのかも知れない。

こういった王都や倭国の骨格造りに、斉明だけの意志に基づくもので出来るのだろうか、次期王権と目されている中大兄の影響はなかったのか、謎はのこる。

③  有馬皇子の悲劇

斉明三年(657)あの亡き孝徳天皇の皇子、有馬皇子失脚事件が、斉明の「飛鳥石の王都」の造営中に起きた、難波宮に孝徳と残され孤独の内に父孝徳の死を見届けて、失意の中、飛鳥に戻った有馬の皇子に取り、狂人を装うしか生きる道は残されていない。
だがそれさえ許されなかった、「書記」に見る有馬皇子の評価は
「有馬皇子、性さとし 陽り狂れて云々」
と皇子を「悪賢い」と評し狂気のまねをして、疑心暗鬼のめでみられって居たことが分かる。
実際父への仕打ちに捻くれても仕方が無いところ、そしてその恨みや無念を晴らすべく、煽り唆すものまで出てきても不思議ではない。
それは罠か策略か経緯はこうだ、
「牟婁温泉に往きて、病を療む偽す」(温泉に行って病を治す振りをする)
和歌山に行き白浜温泉の隣の湯崎温泉へ行き湯治の効果を吹聴したらしい。
紀伊の温泉に行くことを唆す臣下が勧めたか、作為が有ったのか、温泉から帰った、有馬皇子は明るく、紀伊を褒め称えた。
その行動が後で作為と見なされて失脚するのである。

その噂か、有馬皇子の勧めか、この年の十月十五日、斉明は牟婁温泉に湯治に出かけた。
勿論中大兄も従えて温泉に出かけた、その湯治に行っている間の出来事としての謀反を記されている。
仕掛けたのが、かって石川麻呂を密告し失脚させた蘇我日向の弟の蘇我赤兄である、蘇我本家は滅んでも亜流は健在であった。
筋書きはこうである。
斉明天皇と中大兄が紀伊国の牟婁温泉に湯治に行っている間に、留守官として残っていた赤兄は、有馬皇子の処に訪れ、天皇の失政を上げ有馬皇子の不満を煽りけし掛けたのである。自ら天皇の処置でその不遇を嘆き、政治の不満で民の苦しみなどを言って、決起を促した。
「今こそ兵を挙げるべき時が来た」と勧めた。
翌日有馬皇子から赤兄の家に行き、謀反の計画に入った。塩屋小才、守屋大石、坂合蓮薬らが加わり、まず宮廷を焼き討ちし、五百人の兵を持って、牟婁の津に向かわせ、軍船を持って斎明らの一行の道を絶つというものである。
皇子は家に帰った、宮廷を襲うために、直ぐに兵を集めた物部朴井蓮の指揮の下に向かったのは宮廷ではなく有馬皇子の家だった。
一方急ぎの使者が和歌山の牟婁温泉の津へ向かわせた。
実に手回しのよい話で、事件後脚色されたのだろう。

こうして罠にはまった有馬の皇子は牟婁の津にごそうさせられ身になった。
この道中にその心情を歌にして残されているが、悔いてもその身は風前の灯になった。
一筋の望みは、中大兄皇子の温情を期待したが、中大兄の厳しい喚問には除名の意志など無かった。
「何故、謀反を計画したのか」の問いに
「天と赤兄が知っているはず、自分は解らない」と答えた。この事件は誰が見ても中大兄が仕組んだ筋書きは推測される。
有馬皇子は十一月十一日に紀伊の藤白坂で処刑された。
中大兄は有馬皇子が自分に恨みや、不満を持っていることを知っていた、さりとて無闇に有馬皇子は削除をしたり抹殺することは出来ない、一計を案じ赤兄に策略を命じた。
それは、後々に悔いの残らないように王権の血の粛清であった。
王権を手にする者、如何なる小さな芽でも小さい内に摘み取らなければ、自分が逆に討ち取られかねない、大きな王権の布石の鉄則である。
華やかな王族の裏面に付きまとう暗い影に、一つの時代が変わって行くのである。


④ 東北遠征 

倭国の有史以来からの最大の問題は国内統一であった、王権の完全統治であたが遅々として進まず、神話に出てくる景行天皇より、武内宿禰から日本武尊以後、応神、仁徳、雄略など諸王朝が取り組んだ、東北の制圧である。

その後の政変はこれと無く、ただ阿倍比羅夫の東北遠征と朝鮮半島の三国の対立が表面化してくるのである。
それがここに来て斉明四年(658)阿倍比羅夫を総指揮官として支配地拡大と完全東北制圧だった。
別に蝦夷や隼人が攻めてくる訳でもなかったが、完全な服従、従属が前提条件だった。
あくまで北へ北へ、未知の世界へ、北上する征服軍は斉明三年(658)四月阿倍比羅夫率いる軍船八十艇、服従していた津軽の蝦夷を水先案内人として、越よりさらに齶田(秋田)へ齶田、渟代(能代)の蝦夷は比羅夫軍の勢いを見て恐れ降伏した。
次に有間浜(津軽半島)にさらに渡嶋(北海道)の蝦夷を招きいれ服従させることに成功したのである。

その後服属された蝦夷は、倭国の朝廷に来朝し、調を貢献している、来朝した蝦夷の各地の族長は、倭国の朝廷に来朝し冠位を受け、倭国の支配地は広がり順調に進んでいった。
翌年比羅夫は、二回目の遠征軍を編成し再度東北に向かった。

今度は北海道南部に上陸し、蝦夷を集めて従属させて禄を上げた。

さらに斉明六年(660)の遠征には粛慎(あしはせ)という民族に遭遇している。渡嶋で蝦夷約千人が対岸に集まって仮住まいをしていて、聞けば粛慎軍船が、蝦夷の集落に襲ってくるので避難している、
「われわれは殺されるので助けて欲しい、朝廷にも仕えたい」と救援の声だった。
倭国はここで聞きなれない「粛慎」という民族に出会ったのだが、果たしてその民族が、アイヌ民族かは、解らなかった。
東北から北海道には違った民族が存在することが倭国は知る事になる。

そして話し合いを試みるが失敗ついに戦闘に入り、能登の豪族の兵士は多く戦死し激しい戦闘の末、比羅夫は勝利した。

そして降伏した「粛慎」四十七人が来朝し、石の王都で、儀式が須弥山像の前で服従の儀礼が行われたという。
凱旋した比羅夫は、生け捕りにしたヒグマ二頭とヒグマの毛皮七十枚を献上した。
これを見た大和の人々は驚いただろう。
この頃、倭国は唐とは交易はあっただろうが、これを更に遣唐使に蝦夷の二人を同行させて、一緒に皇帝高宗に謁見させている。
高宗は大変興味を示し、蝦夷について、
「蝦夷は何種類の部族がいるかと聞いた」その問いに
「都加留、鹿蝦夷、塾蝦夷の三種族ございます」と答えたという。
結果、何のために蝦夷をわざわざ唐まで連れて行ったかについては、倭国にも服従する異民族が存在するという誇示に他ならない。
実際に倭国の国内でも東北、北海道にはまだまだ支配の届かない未開の地域が大部分だった。
一応比羅夫の三回に渡る、東北の大遠征は成功だったようだ。
阿倍比羅夫の遠征の成功は海路沿いの、軍船八十艇の用いての、また真冬を避けての作戦にあった。
それまでは陸路で、往復の食料との運搬には限られた量しか運べず、拠点拠点には警備や、城塞も完備されず、未開の地を切り開き進むようなもので、また海路では北海道にもそう手間も掛からず行け情報も知ることが出来たが、ただ一過性的なもので、還ってしまえばそれで終わる、拠点造りには剥いてはいなかったようだ。
その後、平安時代の頼家、義家の前九年、後三年の役まで大掛かりな東北政策は無かった。
飛鳥時代の蝦夷制圧は隷民としてではなく、服従し、朝貢さるだけで充分だった。


四  白村江の戦い

①  伝説上の神功皇后の朝鮮出兵


古代、日本(倭国)は朝鮮半島を通して大陸文化の吸収に交流が断続的に、互いの王家の変動があっても続けられた。
だが国際性を考えて見た場合隣国の動乱や変動は決して無関係ではなかった。
侵略の紛争から、隣国の国紛争に巻き込まれた部分も否めないのが、「白村江の戦い」だった。

西暦三百年終わりの頃、神話にある様な朝鮮半島の内乱に乗じて、新羅、百済に攻め入った。
二回目が斉明の「白村江の戦い」でこれも内戦に新羅に攻められた、百済の救援要請と大義名分で攻め入った。
三回目が「秀吉の朝鮮出兵」で四回目が明治の日韓合併であった。
だが二回目の「白村江の戦い」は敗北と悲惨な目にあった戦いであった。

倭国、大和朝廷が大陸の王朝にとても歯の立つ相手ではないことは、熟知の上だが、近隣の朝鮮半島は無関心ではいられなぁった。
半島の三国と隣接する中国は有史以来紛争は絶えることが無く、中でも高句麗と巨大国家唐国の対立は、新羅、百済おも巻き込み、三つ巴、三すくみの形で、しかも倭国と、唐国の半島の派遣を巡り、模索しなければならなかった。

②  白村江への道

事の発端は、唐の半島への派遣を巡り、唐と高句麗との対立が激化、唐への服従を嫌った高句麗は、抵抗し続けた。
膠着状態が続いていたが、そこで唐は作戦として「遠交近攻」の政策を取った。
唐は新羅と急接近政策を取った。
この頃新羅は金春秋が即位して、武烈王なった時であった、百済に対立していた新羅に取り有利になった。
今度は唐服を着て入朝した新羅の使者を追い返してしまった。
倭国と新羅の関係は悪化し、新羅と対立する百済とは関係が深まっていった。
その頃百済は新羅と対立する高句麗との関係が深まり、倭国と唐、高句麗、新羅、百済と微妙に複雑になって来たのである。
まさに敵の敵は味方である、そんな構図になってしまった。
斉明五年(659)には、百済、高句麗の連合軍は、新羅の二十余りの城を攻め落とし、これに対して急遽、新羅の武烈王は、唐に援軍を要請した。
唐は翌年、蘇定方を大将軍として、入唐していた武烈王の弟、金仁問を副将軍として水路十万余名の兵を持って出撃した。

新羅軍と唐軍に挟み撃ちにあって、百済軍の義慈王は、応戦に耐え切れず王都洫泚城を逃れ熊津城に入ったがついに唐軍に降り義慈王捕らえられて、唐の洛陽に送られてそこで病死、ここで百済はあえなく滅亡した。
これだけなら倭国も巻き込まれる事がなかった。

だが親交の深かった倭国は、征服された百済の各地から起きる、復興を願う蜂起の起こりと、中でも王族の鬼室福信や僧の道探が挙兵し、仕存城がその拠点になっている知らせが倭国に届き、援軍と唯一の後継者の人質として入朝していた王子豊璋を王位につけ、百済を復興する計画を訴えた。
これだけの経緯では、斉明も、中大兄も倭国の援軍を差し向けることは無かった。
何故なら唐軍を相手に勝てる訳がないことを知っていたからである。
でもその百済軍が、復興しその勢いが伝えられたので斉明の心動かした。
また阿倍比羅夫の東北遠征も一定の成果もあり、今この半島の混乱に乗じて倭国の覇権の機会を逃しては、もう二度とはんとうとに影響力と拠点を造ることはできない。
そんな焦りが有ったのか、また東北遠征の延長線上に斉明の世界観があったのか、何故か斉明は出兵を決意した。
倭国としていくら救援の要請を受けたとしても、相手は強力で広大な唐のよほどの覚悟で取り組みをしなければ、痛い目に遭うのが見えている。

③  出兵の決意

ともかく無謀、軽率と云われても、大国、唐を敵に廻しても戦う六十才を越えての老女帝の決意は固かった。
斉明六年(660)百済からの救援の要請の使者が来た、早速準備の手配が急速に進められた。
各地に向かって、国司を通して徴兵の召集がかけられた。
また重臣らに半島の情報、外征の計画が示され立案された。その年の十二月には筑紫に本営が置かれることに決まった。

斉明自らの陣頭指揮を執り、進められていたようだ。出陣は難波宮にて準備され、武器、資材なでの調達がなされ、召集された兵と共に難波宮をあとにした。
斉明七年(661)正月、内海を一路九州の筑紫に向かって出発した。
老女帝は、中大兄を始め、王族大海皇子、大田皇女、鸕野皇女(持統)他主だった王族は斉明と行動うを共にした。
飛鳥宮の留守は誰がしていたかは定かではないが、万一転覆、謀反を考えた場合、危険をはらんだままの出陣であった。途中、岡山東部の大伯に立ち寄り、大田皇女が大伯皇女(大海皇子の間に子)を出産し斉明六十歳余にしての孫の誕生である。
遠征軍は再び内海を出航し、この頃のなると兵士、要因の合流となって増員されていった。
物資の調達もされていき、またこの間には筑紫の方では行宮造営が進められ、百済出兵の軍船も着々と造られていた。
そして一行は伊予国の熱田津(にきたつ)に寄港し、石津の宮を行宮としてしばらく滞在する。
老、女子、を率いての長旅は疲れを癒すためにしばしば休息を取らなければならなかった。
この間にも四国地方近辺よりも兵士の招集と物資の調達が行われていただろう。

この頃の万葉の歌人、謎の女王「額田王女」の情景を歌ったものが残されているが、この熱田の宮で約二ヶ月間滞在したと思われる。
三月二十五日には九州は博多に到着し、船瀬に行宮を造り長津宮と名づけた。
五月になり、奥まった朝倉の地に朝倉橋広庭宮が完成した。
この築視での宮造り間に鸕野皇女が(持統と大海皇子の間)の草壁皇子を出産している。
戦時下での慌しく王族の出産があったがこの中に、奈良時代の数少ない後継の一人の草壁皇子が生まれたのはせめての皇脈布石でもあった。
くしくも老女帝斉明は慣れぬ長旅にと、馴染みの薄い九州の地で心身共に疲れて、にわかに体調を崩し、七月に突然に客死した。
この場に及んで、不吉な出来事に、この先の戦いに悪い兆候ではないかと、派遣される兵士や臣下の士気の低下は見るより明らかであった。
戦争をする国の国王が出陣の前に崩御は縁起でもないと、言いたい所、動揺すれば相手に足元を見られる。
後継の中大兄皇子は葬儀、葬祭は後回しで素服のままで称制を執らなければならなかった。即位しないままに天皇、大王の政務を執る不測の事態に、王族や重臣などの動揺は避けたいので如何に鎮めるかの手腕に掛かっていた。
逆に臣下に対して、亡き斉明の決意を、意志を継ぐ、大義名分を「道半ばの思いを」とむしろ「弔い合戦」と名を打って、臣下、に向かって中大兄皇子の陣頭指揮の基、奮起を促したのかもしれない。
十月まで筑紫で留まっていたが斉明天皇の「殯」を大和で執り行うために遺骸と共に十一月には筑紫を後にした。
一行は朝倉宮から沿岸いに、長津宮に還り斉明帝の意志を引き継ぎ「水表の軍政」が執られた。
④  白村江へ出航

まず派遣軍を編成し、八月には安曇比羅夫連、阿倍引田比羅夫ら五名の前後の将軍を任命し、第一陣に派遣した。
九月、百済より再三の要請のあった、人質同様に入朝させられていた、「余豊璋」を百済の王族の後継者になった今、帰国の要請に応じて、狭井連らに5千の兵を付けて護送させた。
翌年前、中役の将軍を命じて、二万七千の兵力を持って新羅を討つために増援
軍を派遣した。
まず倭軍は、先発隊と後発隊二万七千の兵を送るのに船団を組み、綿密な計画の下に進められた。
唐の十万の兵を持って百済を攻め落としたに比べれば、倭国の軍は俄か仕立ては免れない、二万七千の兵を送るにその輸送船の製造に僅か半年で造らなければならない、粗悪で疎かも一隻で五十人運べても五百隻の軍船を造るとなれば無理なものとしかいえない。
倭国軍の備蓄の軍船が有ったとしても内海用で即戦力には対応でき無かったろう。

一方準備備周到で迎え撃つ唐軍、新羅軍ちは数、質とも優れていて、勝敗は見えていた。
後は、後年の蒙古襲来の嵐が吹いて天が味方する以外に勝ち目は無かった、それとも唐、新羅の余程の失態が無い限り、奇策も無く適うものは無かった。
三月には倭軍は、半島伝いに北上し、年末には倭軍と百済軍とが合流し、周留城を拠点に戦いを展開していった所、豊璋、福信と倭軍の将軍との対立が生じた。
翌年は、有ろう事か帰国して間もない豊璋と、唐、新羅と戦っていた百済の総司令官福信が対立、作戦を巡り深刻かつ激しくなり、遂に豊璋は福信を殺してしまった。
内紛に仲間割れは益々事態を不利りにさせていった。
八月二十七日、復興軍を一掃すべく唐、新羅軍は総力戦で、周留城を包囲し水路を用いて白村江に陣を張って居た所に、周留城の包囲網を突破せんとしていた倭軍の水軍と遭遇し戦いと成った。
激突した唐は、激しく戦火を交えるが、挟み打つに遭い、敗退翌日も再び交戦したが統制を失った倭軍は大混乱の内大敗、多くの倭軍の兵士は白村江に飛び込み溺死、倭軍の約4百隻の軍船は炎上し、海は赤く血で染まったと言う。
百済の豊璋は、高句麗に逃亡したが、唐軍、新羅軍の勢い留まるところ知らず、やがて百済、高句麗も滅亡した。
倭軍は、離散し故国日本に向かって敗走、百済の要人と共に再び倭国の土を踏んだのである。

その後の倭国の戦後処理は、百済の、残兵、要人の受け入れと、防衛の策を立てねばならなかた。
その後の帰還兵の記述に拠れば、百済人の入国は断続的に行われ、百済人二千人が四十年振りに苦難の末に帰国したと言う。

倭国に取り、百済救援の「白村江の戦い」は何だったのか、それは今日東南アジアの構図によく似ていている。
交通の未発達の世界にも、隣国はの出来事に無関心ではいられないのが,人類の性と云うものか。


日本の古代史上見ても、記述を見ても、邪馬台国の卑弥呼の王権より、多少の内紛はあったにせよ、外国からの干渉による国を二分するような争いは無かったの、一国一権であった、日本人の智慧と島国と言う立地条件が大きな要因だったことは否めない。
その点、朝鮮半島の人々は気の毒であった。漢、魏、晋、宋、斉、隋、唐と巨大国家と戦わなければならなかた。
半島の中でも三国に分れたことも、国際的に存続する難しさがあった。

百済救援で手痛い目にあった、倭国は状況が変わった、
唐に大敗した朝廷は今度は国土防衛の強化体制をと言う屈辱を味う事になった。
もし唐、新羅軍が押し寄せては来ないだろうか、そんな思いが中大兄の頭をよぎった。百済出兵についてのその責任を問う者は無いにせよ、王族や周りの重臣からなどに、不満は無かったとはいえないだろう。
国民は疲弊し切っていたことは間違いが無いところ、難しい舵取りを迫られるのである。
まず天智三年(664)国土防衛が強化された、対馬、筑紫に防人を、石烽を
置き、筑紫に本土上陸阻止線として、水城が築かれた。
倭国に取り国土防衛に前代未聞の何時攻めてくるか分からない、敵に脅えなければならない屈辱が今も残っている。
現在もその遺跡が、全長一、二キロ、高さ十三メートル底部八十センチの土塁は今も残っている。
他に大野、禄に二城を設け対馬、壱岐にも要塞を築き、浪速、大和の国境の高安山に大きな城塞を造ったが、唐、新羅軍は一向に攻めては来なかった。

五  近江遷大津宮への道

①  近江遷都 

 天智六年(667)突如、中大兄皇子は天皇に即位しないままに飛鳥から近江に遷都を決意した。
倭国の王都は大和といった常識を覆し、また機内から畿外に始めての近江大津宮に遷都、何もかもが例外ずくめだった。
皇太子のままの称制で、白村江の敗戦の傷跡も癒えぬ間に、正式な皇后も定めず、実の妹との結婚に王族からの承諾も得ることも無く、その間人皇女が遷都の前年に没し、中大兄を取り巻く女性は九人妃が居たが血筋のよい後継の皇子は居なかった。
また意中の間人皇女の失った衝撃も大きい、そんな失意が近江に駆り立てたのかも知れない。
また歌人の額田女王も心底に中大兄の心癒す存在ではなかったし、何より  中大兄に皇子の後継者には恵まれていなかった。
それでも中大兄に対抗できる、皇継がいないのと、天智の強権に口を挟む者が居なかったのかも知れない。
また大海皇子との関係も良好で、支えも有ったのかも知れない。
遷都に伴う莫大な時間と、費用を国民に強いるには、遷都への理由、大義名分が必要だったが、その動機については記されていない。
本音は白村江の戦いの、唐、新羅軍の追撃だとは言えないところにある。
大和を捨てて近江に移ることに、日本書紀には「天下の百姓、遷都をすることを、願わずして、調べ諫く(あざむくもの)者多し、童謡また衆し、日々夜夜、失火の処多し」と人々の重臣から、民、百姓までの不満と動揺が窺える。
周りの反対や不満をよそに中大兄の決意は固く、強行された。

何故反対されたかについて、その理由に、立地条件が悪いことだ、大津近江宮は比叡を背に狭い場所に、宮殿や、朝堂院や内裏、各役所、皇族の邸、役人の家など、考えて見ても過去の,難波宮、飛鳥に比べても、使い勝手が悪い。

②  国土防衛と戦後処理

天智六年(667)三月、正式に中大兄は近江大津宮に遷都し、十一月には、大和の高安城、讃岐の屋島城、対馬に金田城を築く、これらの城は、わが国最古の城で朝鮮半島の城塞を模して造られたと思われている。
特に高安城に至っては大和、河内の境にまたがり広大な山城であった。
最近の発掘調査では石積み跡が発見されている。

天智七年(668)正月、遷都、国土防衛とめまぐるしいく、慌しい中、皇太子中大兄皇子は称制から正式に即位し、天智天皇となった。

白村江の戦後処理として、百済人の処遇で追われていた。
天智五年(665)百済人,四百人を近江国神前郡に置く。
翌年(666)百済人、二千人余を東国に移す。
天智八年(669)百済人、七百人を近江国蒲生郡に置き。

③ 近江大津宮

近江大津宮の僅か五年の間の政変、政務、施行は近江令を撰上、大化改新の延長線上の一環とし年籍、戸籍の調査の実施である。
現在でも国勢調査は五年に一回があるが、古代に於いても自国の国勢はその人口を知る事にあった。
この時代の戸籍調査はわが国初の作成である、一戸ごとに戸主を上げ、民部、家部と云った単位で細かく記載し、賎民には別に注記を付けて作成された。
詳しい住民の把握は、常に税の徴収と夫役の課税の対象の目論みがあるものである。
近江令については国家体制と官制の関係は、天智天皇の後継者の問題が絡んでいたと思われる。
大友皇子の太政大臣の任命に見ることが出来る、天智帝についての,まつわる人間像に関して、万葉集に出てくる様に、天智と天武の、額田の王女の三角関係は、王権を通しての、愛情物語である。
よく取りざたされる、間人皇女との語り難い天智との関係は、間人皇女の死によって終止符が打たれ即位、そして倭姫を皇后に立て、近江宮で即位し、額田王女とはその後、天武と絡んで微妙に変化して行った。

天智八年(668)乙巳の変より天智を支え続けていた、功労者鎌足が病に伏し、朝廷としてその功績を称え。大織冠を藤原氏の姓を賜る、その翌日鎌足死去する、朝廷を影で支え、大兄皇子と大海人皇子の絆と重鎮を失った影響はその後の政変に大きく影を落とすことになる。

遷都の翌々年の天智八年(669)
継子皇子の不安は、天智帝の即位から浮き彫りになっていった、若いころの中大兄は政変に追われてさほど気にもならなかったが、古今東西、権力者が頂点に立つ時、考えることは後継者のことである。
天智天皇も例外ではなかった、天智帝には、皇后の古人皇子の妹の倭姫には継子に恵まれず、多くの妃や夫人、女官、采女などが居たが、皇子には恵まれず、有っても母方の血筋が良くなかった。
その一人が大友皇子であった、母は伊賀の采女宅子を母としていいたので、血筋的に見ても後継者として無理があった。
そのほかに石川麻呂の娘の遠智娘に、建皇子生まれたが八歳で亡くなり、他に大江皇女、川島皇子、水主皇女、施基皇子(天智系の最後の皇継) 継子に恵まれなかった天智帝と、大海人との王位継承については暗黙の了解が遭ったのではないか。
天智帝を皇太子の時より支え続け、大海人皇子の皇后に天智の娘の鸕野皇女、妃に大田皇女向かい入れて、それぞれ皇女に皇子に継子として、天智の血脈が後継に大海人皇子の配慮が有った。
だが天智帝が心身共に衰えと共に、寵愛する大友皇子に望んではならない、王位に就かせたい、大友皇子は賢人の誉れ高く唐使の劉徳高が「この君子、風骨(風格と容姿)世間の人と似ず、実にこの国の分似非ず」と絶賛したという、君主の器の人物と評されている、大友皇子に、そんな思いが老いと共に募るのであった。
ついに天智帝は決意した。その後の大きな禍根の種と成る事も知る由も無かった。

天智十年(671)正月、左大臣、右大臣以外に、太政大臣という重職を天智帝は、大友皇子に任命した。
臣下、重臣は驚きはただ事ではなかった、それまで大海人皇子のことを、大皇弟と皆が呼んでいたからで、次期天皇の暗黙の了解があったからである。

大友皇子を太政大臣に任命した翌日に、病床の天智は大海人皇子を呼びに蘇我安麻呂行かせた。安麻呂は大海に向って
「心してお答えしてください」と忠告した、臣下の者は天智帝をよく知っていた、幾多の政敵を策略で消滅させたことを、天智は大海に向って、
「後事を全てお前に託したい」と大海人の心に探りを入れた。
「私は病を抱えた身でとても天下の政治は執れません、王位は倭姫にお譲りください」と断り、
「私は今日にでも陛下の為に出家して仏道に励みます。」
許しを貰った大海人皇子は直ぐに吉野に向った。
それを見た人々は「虎に翼をつけ野に放つようなもの」と評したという。
この経緯は有名な話だが、天智の強引な王権の道筋は、没後は脆くも消えて、威光も空しく消えたということである。
権力者の泣き所は、常にその後継者に尽きる。
十二月三日天智は四十六歳の生涯を閉じた。


六  壬申の乱

わが国史上最大の政変こそ、壬申の乱であった。
この壬申の乱の記述については天武系の人々の編纂なので決して公正な記録の記述とは言い難いので、如何しても近江方の不利な表現は止む得ないところである。

向った。何より気になったのが、近江に残してきた、高市皇子と大津皇子が気掛かりだった。
その後大海人皇子は仏門に入り天智の病の治癒を祈願したかは、誰もが思うように、無念と悔しさが一杯だったろう。
約束が破られた思いは拭いきれない、今となっては、二者択一の選択に迫られたのである。
「やるか、やられるか」このまま近江方が見逃すわけが無い。
きっと兵を向けることに大海人皇子は確信していた。
王位奪還と、身の保全のため大海人は大和を中心に手を打っていった事は云うまでもない。

① 大海人吉野へ脱出

だが近江は手討つどころか、天智の様態が進展せず、回復を祈るのみであった。
その年の暮れ十二月三日天智は没した。
この吉野の大海人の知らせを受けた時には、反撃の準備は出来ていた。一方近江方は後ろ盾の天智を失った上に、葬礼の儀に追われ、その諸所処理に吉野の動きなど然程気にせず天智の誄の儀。葬礼を持って近江の称制をすればいい、今は太政大臣として近江の体制固めをすればいい、若き王子、大友皇子は大海人に対すれ警戒も無く、正式な即位も伝達と儀式の無いまま、ただただ父の天智の威光頼みの政権だった。
大友皇子の取り巻きの人脈は、形ばかりの王族に重臣の集まりでしかなかった。紐のない風船の様な物だった、天智の死に際に重臣蘇我赤兄を始め六人の主だった者を集め誓わせた。
「六人が心同じくし天皇の詔を奉じ大友皇子を守ろう」そんな内裏の西殿の忠誠も崩れていくのであった。
経験不足と、母方の身分の低さ、天智没後の君臨する、大友の振る舞いに人臣の心が、どんどん波なれ求心力は失われていった。
逆に吉野の大海皇子への同情と、政治手腕への信頼が再評価されて行く中、そんな人臣の掌握が出来ず、空気も読むことも出来なかった。
重臣の中からも大伴連兄弟などは、近江を見限り大和へ引き返す者が続出、大海皇子に思いを寄せる者が、恐らく諸国にも広まっていったのだろう。
なにより大友皇子の最大の不幸は、良き参謀が居なかった事にある。

②  大海人の決起

そのころ吉野では、近江の動向を見守っていたが、臣下から美濃に私用で行った折に近江朝廷の役人が天智天皇の陵墓造りの為と称し、美濃、尾張の国司に人夫に、徴集させて各自に兵器を持たせていると、報告を受けた。

これらは吉野に攻撃を加える為と、近江から飛鳥に至る道の要所の斤候を置き、
宇治川の守橋者が吉野にへ運ぶ食料を阻止しているとの知らせが入ってきた。
少なくとも吉野の大海皇子の布陣する情報網があってこそ知れたものかもしれない。
この辺りでは近江方も大海人方それぞれの準備が出来ていて、一触即発の模様だったかも知れない。

六月二十二日、大海皇子は遂に決意、行動を起こす。
記述には、あくまでも吉野が包囲網が敷かれている前提で、極僅か手勢で吉野を秘かに発った。
諸国の豪族も両者のどちらに見方になるかは、明確にしていなかったので、大海皇子には密告の危険はあっただろう。
少数の決起こそ大海人の勝因に繋がっていった、秘かに吉野を離れ地方の豪族を味方につけるに掛かっていた。
まず近江付近の豪族を、美濃国出身の舎人を美濃国安八磨評(こおり)に行かせ評の役人を取り込み、美濃国宰を動かせて兵士を徴集し、近江と美濃国を国境の要所を押さえた。
この後大和朝廷の三関の一つの不破関と云った重要な拠点を押えて優位に事が運んでいった。
ただ大海人の気掛かりなのは、人質同様に押さえられている、高市皇子、大津皇子の近江からの脱出がまだだった。
ところが密使を出し脱出に成功、これで大海人はなんの躊躇いも無く、近江を攻撃が出来る。

思い返せば吉野を発った時は僅かな手勢で、鸕野皇女以外は徒歩での行軍であった。
道中、危険と幸運な出会いに、昼夜を通して進み、夜は松明、途中で美濃王に出会い、猟師一行も加わり、伊賀評では数百人が帰順し、進むにつれ動員が増え、理想的で絵に描いたようなもの、積殖まで来たときに、近江から脱出した高市皇子らと合流、さらに伊勢、鈴鹿で国宰の守と介の役人が大海人に多数帰順し、三重の評家で一息をついた。
こうして電撃的で先手速攻で大海人の勢力圏が広がっていった。
これに対して後手、後手に回り、総崩れの状態に陥り、さらに大海人方の一行は昼夜の進軍を続け、二十六日には朝日(評家)現在の三重県朝日町、の手前で、不破道の要所を三千人の兵で閉鎖に成功した。
吉野を出て四日間と云う思わぬ成果に気を緩める事無く、高市皇子を不破に行かせ、陣頭指揮を取らせ、益々士気が上がり、二十七日には大海人自身不破に入り、尾張国小子部連鉏錫が二万と言う兵力を率いて大海人の基に馳せ参じた。

「大海人、吉野脱出」
一方近江朝廷方はこの動きを知った時は、臣下の進言は騎兵部隊を派遣すべし、追撃を進言するが、これを退け、諸国の東国、四国、中国九州地方に兵の動員を計った。
もう真近に迫っているのに、吉備国、筑紫に派遣要請を空しく響くだけであった。
これらの経緯の編纂は近江方の能力の欠如を強調するように描かれている。
ただ高市皇子が漏らした不安の言葉に、
「近江の群臣が多く、、、、、」近江の群臣が気にはなっていたのだろう。

③ 近江大津宮の滅亡


一方近江軍の大和での戦いは、河内での動員された兵士と混戦、大海人方の大伴吹負軍で制圧、大和も大海人の支配下になった。
方や近江方面の戦況は大海人の拠点、不破の関は近江方数万の兵に攻められるが、内紛で自滅、寝返りする者、続出し、大海人軍は近江宮に向って快進撃を続け、七月二十二日には、近江軍の防衛線の勢田まで迫った。
近江朝廷軍と、大海人軍は瀬田川を挟んでの戦いとなった。
最後の決戦が互いの命運を懸けたが、近江軍の善戦にも関わらず、総崩れとなって、近江大津宮は陥落、王宮は炎に包まれ、多くの重臣や兵士は討ち死にした。
敗軍の大友皇子は、重臣達とも離散し、物部麻呂と、二人の舎人だけになり、逃亡の末、自ら首をくくって死んだ。
享年二十五歳、未来は約束された貴公子の哀れな最期だった。

壬申の乱の勝敗因と後始末

近江大津宮遷都には無理があって、大和の豪族の離反は大きい。
大海人の老練な手法に、経験と人脈。
大海人を取り巻く家族の絆。(高市皇子)

戦乱の処罰については大友は自刃したが、近江方の重臣や王族に対しての咎めは軽く、次期王権の安定を求める大海人の思いが有ったのだろう。

七  天武帝の政策と人となり

① 天武の人間背景

天武天皇は、わが国初の「天皇」の宣言であり、わが国を「日本」の世界に対しての告知したのである。
天武の生涯を足跡を考えて見た場合、形成期、成熟期、晩成期と三つに別けて見た場合を考えて見たい。
大海人は天智天皇の実弟である。天智帝より五歳下と推定されている、乙巳の変には兄の中大兄皇子の後ろで事の成り行き見ていた歴史の証人でもあったが、
壬申の乱までは、中大兄を影に、裏方に支え続けてきたのが、大海人皇子なのである。
十九歳の兄の大海人皇子の入鹿に気合を入れて切り込んだことも目の当たりにみていた、古人大兄、も草壁皇子も、策略によって消えて行き、王族に貢献をした妃の義父にも抹殺された。
そんな数々の政略、血脈の粛清をみた大海人は、生涯で壬申の乱以外は自ら戦いは、望まなかった。

気丈な母の皇極の重乍し、石の都造りに、難波宮に、白村江の戦いの九州遠征と、母と兄に従った大海人はその足跡からは冷静に見える。
天智帝の四皇女を皇后、妃に受け入れてきた。
鸕野皇女を皇后に       草壁皇子が生まれ
大田皇女を妃に        大伯皇女、大津皇子が生まれ
大江皇女を妃に        長皇子、弓削皇子が生まれ
新田部皇女を妃に       舎人皇子が生まれ

臣下の娘に六人に
鎌足の娘の氷上娘を夫人に   但馬皇女が生まれ
鎌足の娘の五百重娘を夫人に  新田部皇子
蘇我赤兄の娘の大ヌイ娘を夫人に穂積皇子、紀皇女、田形皇女
鏡王の娘の額田女王に     十市皇女
胸形君徳善の尼子娘に     高市皇子
穴人臣大麻呂の娘に      忍壁皇子、磯城皇子、泊瀬部皇女、託基皇女
天武天皇には十人の皇子と、七人の皇女がいた。


大海皇子の家族主義は天武天皇として即位しても変わりは無かった。

吉野の会盟
天武八年五月(679)天皇と皇后は、草壁、大津、高市、川島、忍壁、芝基の六皇子を従えて思い出の吉野に行幸した。
「今日は私はお前たちに、千年の後にも争いごとが起きぬよう、盟約を立てよう」そして皇子たちは
「天の神、地の神、天皇」に誓った。

次の時代を担う皇子六人を争いの無いように誓いをさせる為に、そんな思いが天武を駆り立てたのである。
六人の内、川島皇子は天智の皇子で母は、忍海色夫古娘、 芝基皇子は天智に皇子で母は越道伊羅都売、それぞれの皇子は父も母も違いがあるが、後継に争いが無いようにとの思いが天武にあったのだろう。

天皇と伊勢神宮、壬申の乱に決起し行軍の途中で、伊勢神宮に向って、大海人皇子は戦勝を祈り、遥拝したように、近江より大和に還る途中に、伊勢神宮に寄り奉幣し、勝利を報告したのである。
この頃より、伊勢神宮が皇祖を奉る所として、その存在が記述によって、明らかになってくるのだが、それまでの皇族と伊勢神宮については、神話に元に連続的に皇族と伊勢神宮の関わり有ったように印象付け、歴代天皇がそれを踏襲している様に天武の伊勢神宮の奉幣は、王権の神格化に重要な意味を持っていた。

② 飛鳥に還都

天武元年(672)九月十二日壬申の乱に勝利した大海人皇子は飛鳥古京に還都し、ここに岡本宮の南に宮殿を造り、余年に、天武天皇として即位した。
強力な皇権と指導力を持って、天武朝在位期間の十四年間は他の天皇の在位と比べ、平穏で、これと言った、出来事も国外、国内的にも起こらなかった。

天武帝の政策としは天皇制専制支配確立と言うもので、大王から、オオギミから、超越した神に近い、神格化された現人神、天皇であり、王より、皇帝より権威があって君臨する、天皇を自ら天武天皇と称した。
この頃より親王、内親王の名称もでてくるのである。

八色の姓(かばね)を制定
また階位は、皇子、諸王には明、浄、諸臣に正、直、勤、務、追、進、などで構成された。
王権を支える豪族らの身分階級を、八色の姓として、真人、朝臣、宿禰、忌寸、導師、臣、連、稲置として定めた。

また地域の区割りに、評として地方の豪族の支配地として存在しているもので、一定の自治を認めているが、余余に国として形成していく中、国司として官職を与え、国家の管理下に冶めて行こうとする施策が進められていった。

税としては、調役として、品物の貢者と、労役を分け徴集する方法が、明確にしつつあった。

飛鳥浄御原令の編纂について、取り掛かれる環境にあったということである。
またこの頃より国の名称を、国書には
「日本国王主明楽美御徳」ニホンコクオウスメラミノミコトと名乗り、この頃台頭する渤海国や新羅に「天皇」と書簡に書いて送っている。
「日本」「天皇」という名称を対外的に意識した時代でも有った。

一方仏教については、聖徳太子以来の熱心な信仰と理解があって、あとあと平城京への影響を与えるような政策があった。
天武三年(673)天武帝即位して間もない頃から、飛鳥浄御原宮の飛鳥川を隔てた川原寺で一切経の写経が始められ、大官大寺と飛鳥寺と共に、飛鳥の仏教の普及の拠点となった。

天武六年(676)諸国に「金光明経」、「仁王経」を説かせ、二年後には諸寺に名を定めさせた。

天武十年(680)四月 国の大寺(官寺)を定め、諸寺に「食封」を与えた。
十一月には持統皇后の病気治癒の為に「薬師寺」を建立、天武に取り持統の存在は重いことを窺い知れる。

天武帝の後継者として、天武と持統の皇子、草壁皇子が天武十一年に皇太子として、立太子する。
もし持統の姉の大田皇女が生きていれば、その皇子の大津皇子が皇太子になって居たかも知れない。
後ろ盾のない皇子の差が歴然としてあるものである。
翌年より大津皇子が国政に参加する。その後の大津皇子の運命を窺うことが出来る。

天武十二年(682)かねてより遷都の計画があったのか、藤原京の予定地の視察に行く、何故新都を摸索しなければならなかたのについて、不都合があったのか、唐の長安城に刺激を受けたのか。
日本に本格的な都城の布石が打たれた。

この頃に天武朝での飛鳥遺跡から出土した中で、銀銭を禁じ、銅銭の使用をする記述があって、近年それを裏付けるような、わが国初の銅銭「富本銭」の発見があった。
金,銀,銅、鉄の加工技術が再認識されたが、貨幣の実質的に、流通していたかは、疑問である。
祭事、儀式、魔よけなどの使用と思われる。

新都とは別に、以前の難波宮は副都制で再造営で天武十六年に難波宮は焼失、そこで正式に、飛鳥浄御原宮と命名する、九月に天武帝、病状が悪化し、主要な寺院での病気治癒の祈祷も空しく、九月九日に、享年五十六歳で没した。


八  持統と藤原京

①  大津皇子の失脚

天武十五年 天武が没し、その後継いだのが皇后(鸕野皇女)持統であった。
皇継としては草壁皇子、大津皇子などいたが、中継ぎの天皇として止む得ずなったのが、持統だったのかもしれない。持統程歴史の波乱の中を生きた天皇は例を見ない。
母は蘇我石川麻呂の娘として、父天智天皇、夫天武天皇、父は謀反の疑いで消えて、遷都に王族と共に波乱の中を見てきた歴史の生き証人でもあった。
夫天武の没後十年間称制に就いたが、またもや皇継の筆頭の一人の大津皇子が謀反の嫌疑で失脚し、自害させられた。
よく草壁皇子と大津皇子とは後継者として比較させられる。
天智元年に草壁皇子が生まれ、翌年に大津皇子が生まれた。人柄においては大津皇子の方が良く大津皇子の評判は芳しくなかった。
持統天皇は自分の子、草壁皇子が可愛いのは人情である、後継の皇子を、何とか大津皇子を排除したい、消したい、そんな意思が働いたのか、天武が亡くなった、直後に大津皇子の謀反が発覚、翌月にはじがいした。
あっけない大津皇子の失脚に、限りなく仕組まれた持統の策略は拭いきれない。
後世の記述にそれを認めている、病弱な草壁皇子を温存させたい。
そんな強い思いの上に、大津皇子は消えていった

②  藤原京への道

持統の夫天武帝の意思、それを継ぐ意味での藤原京の造営、推測ではあるが、天武は難波宮の造営を見て、飛鳥の石の都を目の当たりに見て、近江大津宮を天智帝と共に造営に携り、そして自ら難波宮を副都を修理して来た。
何時か唐の長安のような都城を造って見たい思いがあったが、思い半ばで没した。
そんな思いを持統は叶えたい、藤原京への王族上げての気運が盛り上がっていく中、天武十二年(682)頃より、造営が着工されていたようである。
そして天武帝の強い思いが、律令国家への思いであった。

③ 飛鳥浄御原令

遷都造営と律令と理想国家への道は、持統だけでは余りにも荷が重過ぎる。
そこに表れたのが、鎌足の次男、不比等であった。
飛鳥から奈良時代の鍵を握る一人でもあった、斉明五年生まれで、鎌足の後継者として、頭角を現してきたのがこの頃であった。
大化維新以来、中断されていた国家の骨格を成す、律令国家への基盤つくりに、藤原一門の大きな布石でもあった。

不比等の出現こそ、平城京、平安京の藤原一族の栄養栄華の根源と成す。
持統は称制のまま亡き夫の天武天皇の国忌の斎、葬礼の儀を京師の諸寺で行なった。
持統二年(688)天武天皇を檜隈大内陵に葬る。
翌年持統皇后は、正式に持統天皇として即位、飛鳥浄御原令の施行と、大藤原京の造営に持統を側面から支えて頭角を現す、藤原不比等は鎌足の次男で三十一歳になっていた。
長男定恵は仏門に入り、不比等は早くより政界に入り、持統三年(689)飛鳥浄御原令の施行と発令されていった。
令一部二十二巻の戸籍の作成、浮浪人の取り締まり、官人の階位、昇進の制、官製の施行に大規模な人事、移動、そして良、賎民分制度の基準、官人の朝服の色の改め、百姓に黄色、奴に黒服を着させて、そういった事柄は大藤原京遷都へ向け着々と整備されていった。

持統八年(694)十二月新益京(大藤原京)が完成され、遷都の運びとなった。
当初の南北三、二キロ 東西二、一キロと予測されていたが、近年その規模は上回り、南北五、二キロ 東西五、二キロの都城であると判明した。
唐の洛陽京、長安京に匹敵するものである。
都城はもともと唐の影響で造り始めたものである。
南北に十条、東西十坊、枡の目の中央に王宮と、官制の役所、朝廷が設けられている。
堂々たる都城、藤原京で約十六年間政治の中心であり続けた。
大化改新、近江令、飛鳥浄御原令、そして大宝律令の関連性のついては議論があるが、唐に影響された律と令は少なからず関連性は否定できない。
都城と律令は国家と言う、形に骨格を成す規定は不可欠なものに思える。

持統に取り遷都と令は一定の目処は着いたものの、深い悩みがあった、皇継者問題である。
期待の皇子の草壁皇子は若くして亡くなり後はその子の、孫の軽子皇子の成人に成る事を待つだけだった。
藤原京完成と遷都の運びと同時に、軽皇子十五歳を待っての即位であった。
名は文武天皇、文と武に優れ、温厚で中国の古典に精通し、弓の名手の評判の皇子は文武天皇と名付けられた。
この頃側近中の藤原不比等は娘の宮子を文武天皇の妃として確実に、次世代に布石を着実に打っていた。

九  「大宝律令」と和銅

①  律令国家への道

文武元年8697)遷都されて、本格的律令国家確立にしつつ有る時に持統に一抹の不安があった。常に皇継の宿命的な問題は持統にも例外ではなかた。
国内的には比較的に平穏で国内的にも東北にも、九州も目立った動きも無く、ただ心配は即位した文武天皇に健康の不安があった。本格的律令国家に向け
律令の編纂を急がなければならなかた。
律令とは国家の組織と構成の枠決めと、罰則に命令である。
それを明文し文書化するものである。
この編纂には、刑部親王を中心に進められていった。
この頃には藤原不比等も律令の編纂に参加していただろう。

大宝元年(701)新令により政治を行い、余余の発布され律令の選定を完成したので、刑部親王、不比等にその巧に、禄を与えられる。
翌年二月正式に大宝律令が天下に発令される。

律令はもともと唐律令を土台に、日本に合ったもの、刑部親王、不比等らが中心に編纂された。(律令は古代の規定で、現代の法律とは大きく異なる。)
1 律が約五百条、令が約千条、律十二編、令三十編と大きく二つ分けて編纂されている。
2 律は罰則と規制、規定と義務、納税、労役、身分など、例えば八虐の罰は、上は天皇に対する謀反を大罪として、戒めは庶民の罪まで規定している。
3 令は指示、命令と簡単に言えば国家統制の基本で、その内容は官位、官職、戸は集団の単位、地方の行政、区割り、役割、田の租税、課税で
* 令の編目は、大宝律令では二十八編目で職責、中でも、二官八省の官制天皇の権力支配の構成、構図である。

律令の中でも、二官八省は、その後の平安時代にも機能し、当時の行政の枠組みとしては画期的なものであった。
二官八省の中央官制は、二官は太政官と神祇官に分け、太政官に、左右大臣、大納言、参議などの高官に、少納言、外官、左右弁官がいて、それらの管理下に八省の各行政の役割が会った。

中務省は天皇、後宮に関わる事務と、内廷と外廷と仲介、中でも天皇の必須品、内印、駅鈴(天皇の命令を直接伝える証明の鈴)、伝符などを取り扱い、現在の宮内庁と思える仕事である。

式部省は官人の養成機関、官職のない有位階者の機関だった。

冶部省は式典などの雅楽、仏教の僧尼の、それらの外交と、陵墓の管理と葬礼、儀式を取り扱う。

民部省は現在の財務、大蔵省のようなもの、税の徴収、分配。田、調、雑物など扱う。

兵部省は現代の国土交通省のような、流通の行政で、駅制の維持管理、馬や、または鷹狩る鷹の飼育管理、犬の養成飼育などで、川海の船の管理と、兵器の製造と少々ややこしい機関である。

刑部省はやはり犯罪を取り締まる、収監、執行と、今の警察、刑務所も兼ねている。

大蔵省は現在の大蔵省と違い、物資、とりわけ高級な貴品、宝物の維持管理するところであったようだ。

宮内省は朝廷の儀式の食膳、土木工事の、その資材の調達、酒や工芸品の製造と管理、宮廷内の女官と、宮廷内の維持管理、人事まで多様である。

地方官制では、左右京職、摂津職、大宰府の防人から、七道の国司、郡司、里、と定め、国司には、守,介、掾、目の四等官で定められ、地方の行政を円滑に進められるようにされていた。

持統は遷都、律令の公布と朝廷の威信にかけ王権を揺ぎ無い官制を敷くことが出来て、安堵したのか、諸国に律令を見届けるかのように、行幸に赴いた。
大宝二年十月、尾張国、美濃国、伊勢国、伊賀国とかってないほどに遠方に行幸し、藤原京に戻った持統は、これらの律令の発布を見届けるかのように、十二月に没した。

②  持統の死と首皇子誕生  

持統の葬礼の儀は異例として、火葬で荼毘に伏された。
それはかってなかった事で,わが国初のことで、前例として法相の僧第一伝者、「道昭」が文武三年(699)死に際し荼毘を望み、わが国、初の荼毘だった。
不比等の兄定恵と同輩で定恵は、唐からの帰国の途中で亡くなった。

また大宝元年(701)に文武天皇に継子が誕生し、首(おびと)皇子である。
天平の申しの皇子の誕生である。期待の皇子、首皇子の誕生えお見届けて持統は逝った、王族の未来を託し、持統の大きな奈良時代への布石でもあった。
不比等の娘の宮子を母として首皇子は藤原一門の大きな布石でもあった。

大宝六年(706) 文武天皇は難波宮に行幸、この頃に藤原京遷都して僅か十年にも満たないのに、新都候補の模索が始まっていたのである。

遷都をしたいそんな気運が生まれつつあった。謎の謎、何かあったのか、若しあるとすれば、大宝三年から三年間、天候異変で、大飢餓が続き多くの百姓が死亡したと記述が残っている。
仕切り直しを、払拭したい、それとも都城として方位が悪く、易行を診てもわるのか、流通の利便性が、経済的、治安と思いを巡らす間もなく、文武天皇、難波宮の行幸を終えた、翌年六月、健康に不安があった文武は俄かに体調を崩し亡くなった。
享年二十五歳という若さであった。体調を崩した折には母阿閇皇女に譲位の意志表示をしたという。

急遽母阿閇皇女は仲天皇として即位した。この不安定な皇継の裏方を仕切ったのが不比等だったらしい、草壁皇子から首皇子を託された折り黒作懸佩刀を与えられ、今回も与えられた、しかも不比等に封戸を五千戸を与えられたと言う。

まだ多くの皇子、親王の候補の中、首皇子の擁立への布石だった。
阿閇皇女が即位して元明天皇となった。文武の母で、草壁皇子の妃で、持統の妹で、天智の皇女である。
また草壁皇子との間に氷高内親王(元正天皇)吉備内親王(長屋王の妃)軽皇子(文武天皇)の三人生んでいる。

和銅元年(707)十一月、文武の葬礼の儀が終わると同時に、一気に遷都の気運が高まり、この頃には平城京が決められていたようだ。
翌年には武蔵国から和銅が献上があって元号が和銅と改められた。
富本銭と違い、本当に流通したといわれている。
それも国家大事業の平城京の造営に、諸国より多数の人夫、が課役、賦役、としてかり出され、徴用されたために必要にかられて、造られた貨幣こそ、「和同開珎」であった。
次の貨幣の出現まで五十二年間実際に使われた。

十  平城京への道

① 元明即位

和銅元年(708)文武が没し、替わって即位した元明天皇は、中継ぎの仲天皇としての在位の天皇のはずが、孫の首皇子が即位するまで長い年月を担うことになる。
未完の藤原京を見捨てて、平常の地に新都を急いだ、度重なる、不吉な出来事に、飢餓、疫病、厄払いの心境、唐の「四神相応」で合致しているか、そんな刺激を受ける情報がもたらしたのは、大宝元年に遣唐使として赴いた、粟田真人だった。
長安城、東西九・二キロ、南北八・六キロ、人口百万を擁したという。
巨大国際都市長安は周りを五メートルの城壁を巡らた京城に小国日本はいち早く新都を決意した。
都城の形式は、藤原に形は、京城は中心にしているが、長安も、新都平城京も、北の中央に皇城を設け、左右の中心に市を造っている。
大宝律令も、都城も良く似たものを考えたものである。

新都に熱心だったのが、元明であった、平城京に自ら赴き「四禽、図叶う」として、香具山、耳梨、畝傍の三山が南の鎮として、その地相を褒め称えた。
この遷都に元明の最も信頼できる相談相手は云うまでもない右大臣の不比等であった、期待の首皇子の外祖父の不比等と元明は共通の目的があった。

そんな藤原京に、平城京と立て続けに新都造営には民、百姓は疲弊し切っていただろう。
この頃の平城京状況は治安が乱れ、浮浪者が諸国に蔓延して言った。
国家事業に経済的効果はあるももの、飢饉、疫病と天候異変は下層の、隷民、奴婢といった人々の犠牲は計り知れない。
新都つくりに、民、百姓の不満は、機内から畿外へと不穏な動きは東北まで波及し、察知したて朝廷は鈴鹿関、不破関は強化せれ、その任務に当たったのが、藤原四兄弟の次男房前だった。その後の藤原の主流と成る北家の台頭であった。

朝廷の国内政治の悩みは、九州の隼人の服従と、最も手を焼いたのが東北政策の蝦夷への制圧であった。
支配拡大と、統治し税収のを増大したい、衝突と鎮圧で繰り返してきた経緯の内、和銅元年(708)左大弁巨勢麻呂に命じて、駿河,甲斐、常陸、信濃、上野、陸奥、越中、越後の十国から兵士の徴初で、日本海側からと太平洋側からの二面作戦で軍船での大掛かりな、海からの攻略となった。
四十日後には指揮官の一人、民部大輔佐伯石湯が帰還している。
大掛かりな割には早く終結しているのは、陸路はまだまだ未整備で海路は手っ取り早く効率が良い攻略法だった。

② 平安遷都

和銅三年(710)3月、都を平城京とする。
一月には藤原京の大極殿で、朝賀の儀が行われ、急遽その資材を平城京へ移築されたのではと思われている。
石、木材の資材は藤原京の物を再利用すると言う方法で、藤原京は歯抜け状態で政治をやりながら、平城京では慌しく工事が進められて行く様子が窺える。

奈良盆地に造営の手順を見れば、その立地条件の良さを知ることが出来る。
四方山に囲まれて自然の要塞である、東海道、山陰道、北陸道の流通の要所であった。
資材運搬にも、内海を通り大阪湾から淀川を上流に向って木津川で平城京の裏に、二十キロ足らずで物が運べる。

平城京の規模は藤原京より少し小さく、南北四・七キロ、東西に四・二キロ、北側の中央に宮殿、大極殿、
朝堂院、東西を貫く朱雀大路、左右に四坊づつ、南北に九条、左右の中央に東市、西市と役人の家、重臣や王族の邸など、整備、拡充されていく中、平城京の特色として、外京がある、東側に突き出た部分に東宮が設けられた。この地区には次期天皇を予定者が住居する所として、平城京から設定されたようだ。
以後現在まで東宮と言えば皇太子を指すようになった。
平城京の完成に向けた工事は、外観は形こそ整っていったが内部などの整備2なかなか手が廻らなかっただろう。

そして寺院の移転である、大安寺(大官大寺)元興寺(法興寺)薬師寺、興福寺と順次移転されて行った。

④  元正天皇即位

和銅七年(614)には待ち望んでいた、期待の首皇子が元服し、立太子になったが、まだ首皇子が即位する所まで行かなかった。
そこで元明の皇女、氷高内親王に譲位した、あくまでも天武、持統の直系の皇継者に拘った。
三十一歳で独身で、一品親王として、特別な存在だった。即位して元正天皇となり、ここで持統、元明、元正と女帝ばかりの後継は全て、異例続きであった。
この母子の天皇出現に裏で支えたのが、不比等であった。
首皇子の即位を心待ちをしているの、不比等も同じだった、皇継に、遷都に、律令にと平城京を裏から支え続けるのも、娘宮子の天皇の母にするためだった。

元明天皇八年の在位、元正天皇在位九年間はひたすら本命の聖武天皇誕生のへの必死の引継ぎだった。
もし他に有力な皇継者が居たならば、平穏では済まされなかった。
また有力であっても,舎人皇子や新田部皇子のように、王位継承権が有ってもその意志を持たなければ問題は無かった。

霊亀二年(716)不比等の娘明子が正式に首皇子の妃、皇太子妃となった。
これも異例だった、光明子は不比等と県犬養三千代の間に生まれ、歳も首皇子と同じ歳である。
この光明子こそ奈良天平の鍵を握る人物だった、首皇子の母宮子とは、異母姉妹であった。
また母三千代は気丈で光明子は影響を受ける、そんな娘二人を皇族の妃に未来は藤原の隆盛を見届ける前に、養老四年(720)不比等が六十二歳で没した。
不比等こそ次期皇権に大きく布石を打った人の代表であった。

じだいは世代交代で、藤原四兄弟の時代に入っていくのである。
長男武智麻呂、次男房前、三男宇合、四男麻呂らが政治の中枢に躍り出るのである。
養老五年(721)十二月元正天皇享年四十二歳で没した。

十一 不比等から長屋王へ

① 長屋王の頭角

時代は不比等から長屋王へと変わって行った。元正が没した。
養老五年(721)政権は不比等に変わり、長屋王が就いた。本来なら皇族の重要名地位でもあったが、あえて皇籍を降り、臣籍と成っての政権だった。
天平元年(729)栄光から悲劇の失脚までの、謎の多い八年間を平城京の政権を担った。
本来なら天武の長子高市皇子の王子として後継の有力候補として、皇族の中枢でいるはずが、高市皇子の母方の血筋が九州豪族の娘と言うことで身分の低さから父と同様皇権から外されていた。
だが高市皇子は壬申の乱の折には若干十九歳にして、勝利に導く働きの功績は大きかった。
その後持統五年(690)持統在位中では八年間太政大臣として、朝廷を支えた。
妃には天智の皇女御名部皇女が向けられた、元明天皇の上の姉に当たる。
草壁皇子に次存在だったが享年四十三歳で没した。
御名部皇女の間に三人の皇子と三人の皇女が生まれた・父高市皇子と違い長屋王は母が天智女である以上最も王権に近い存在だった。
だがもし長屋王が王権に意欲を見せていたならば、政争に巻き込まれて、排除されて、抹殺されていた可能性は、否定できない。
父はそんな事を察知しいち早く、臣籍の道を歩むことを、選択したに違いない。
まして首皇子が誕生した以上は全ての皇族は、皇権に意欲のないことを示さなければ、身の安全は無いことは熟知していたかも知れない。
運命の選択は父の生き方を、知った上の官人としての登り詰めて行った。

② 北宮王家と木管

長屋王自身その生き方に臣籍に活路を求めた。
長屋王については、謎が多かったが、奈良市の大型建築物の基礎工事で元長屋オウの住居跡から長屋王の関係する、多くの木管が出土し、その権力と、その暮し振りや様子が解明されつつある。
長屋王 天武五年(676)飛鳥で高市皇子の長子として生まれた、母は御名部皇女である。
妃に吉備内親王、草壁皇子と元明天皇の内親王で三人の王子が生まれている。
*膳夫王、葛木王、鍵取王。
石川夫人には王子が一人。
*桑田王。
安倍大刀自夫人に一人の女王。
*加茂女王。
藤原不比等の娘の長我子の間に四人の王子。
*安宿王、黄文王、山背王、教勝?
他に分かっているだけで六人の女王。三人の王子。
*円方女王、紀女王、忍海部女王、珎努女王、日下女王、栗田女王、林王、小冶田王、太若?
なかでも吉備内親王の血縁は深く微妙である。
それが北宮王家(高市皇子、長屋王)という特別な存在だった。
あたもかも、聖徳太子の上宮王家を彷彿とさせるものがある。

首皇子の誕生以降は皇位継承からも外されてからは、その代償として、特別な処遇であった。
政治家の道を選択した長屋王は、父同様にその才覚を発揮したのではないだろうか、平城京遷都から失脚する十九年間、長屋王邸宅は正殿と脇殿と建つ、床面積三百六十平方メートルという、天皇の次に観られる大きな邸宅である。
上記の家族構成に充分住居としても、特別扱いだった。
その機能やシステム構造は宮殿を少し小さくしたもので、政所、務所、(事務所)主殿司、(殿舎管理)大炊司、(食料庫)膳司、(調理)菜司、(野菜所)、酒司、主水司、(水酒の管理)染め司、(染色工)工司、(職人所)鋳物司、銅造司(金物の製造)嶋造司、(庭園所)仏造司、斎会司、(仏事)薬師処、馬司、犬司、鶴司、など多岐に渡りあって、あって一国の王宮のまかないのに相当するものである。
これらの長屋王の関係する人々の従事する人数は数百人に及んだろうと思われる。
邸宅は北門の二条大路に面し、大路には本来門を開いてはいけないのに、表通りに開く北門があって、広大な邸には、妃、夫人と、それぞれの家族に王子、女王が、区割りされた処に住み長屋王の一族を成していた。
そんな大勢の人々の暮しを守るだけの、物資、資金を考えた場合、奈良の大型デパートの建設の折り、たまたま長屋王の邸跡だった。
出土された、多くの木簡は、奈良時代と長屋王の謎を解く鍵として、大量に出てきたのである。
木管は長屋王のその暮し振りと、当時の情景や、情報が膨大に出てきたのである。
しかも途方もない作業であった、木管は長さ二十センチ位で、幅三センチ位、厚さ四ミリ、紙の代行で諸国を流通する、貴重な木札であった。
役割は書簡、命令書、明細書、荷札,連絡書など多彩である。
木といっても貴重である、決して使いすではない。削って再利用するのである。
その削りカスを、一つ一つ広げて、判読するのである。
三万五千点に及ぶ木管を解明しつつある。
実に気の遠くなるような話である。そんな中から当時の長屋王の日々暮らしを見ることができる。
領地から送られてくる数々の品は、その豊かな食卓を物語るものであるが、荷札の木管からは、父の領地、遠くは高市皇子の母方の宗像(宗形)から送られた物があり九州からの結びつきを物語る、封戸四千五百戸分に相当する。
諸国父高市皇子から受け継いだものを入れ三十七カ国にも及ぶ、摂津国の塩漬け鯵、伊豆国の荒鰹、上総国のゴマ油、越後国の栗、阿波国の猪なで、近郊から野菜など、夏には奈良の山手の氷室から氷まで、その豊かな美食が窺い知れる。
長屋王の取り巻く家族はそれぞれの夫人の王子や女王に加え、妃や夫人の背景をも巻き込み、北宮王家として存在していた。
北宮王家についての呼称の由縁は、藤原京時代に父高市皇子が京の北側に住居したのが始まりという。
そういえば藤原四家も北家、南家も藤原京の方角に住んでいたからだと言われている。

③ 長屋王政権

不比等から長屋王へ、やがて藤原四兄弟の台頭、不比等が長屋王に全権を委ねる見返りに、わが子の抜擢を促すが如く、長子武智麻呂の妻に長屋王の妹竹郎女王を嫁がせ関係を深める。
養老四年(721)十二月元明太上天皇が没し、十二月に右大臣長屋王が誕生し、打ち出した政策は、農業振興政策で、良田百万町の開墾政策で、遷都十年平城京の米などの消費に生産が追いつかず、増産するために開墾を奨励する政策である。
次に出した政策に「三世一身法」で開墾と道、水路を整備したものには、三世代に渡りその土地の占有を認めるということである。
養老八年(724)天武、持統、草壁の、直系の期待の首皇子が満を待して、大極殿に於いて即位した。
平城京の申しの皇子、聖武天皇の誕生である。
元明、元正と仲継ぎの天皇十七年にも及ぶ女帝を経ての天皇誕生には皇族内に安堵があっただろう。
異例と云えば皇位継承に、皇族を母に持たない天皇は初例であった。
それが、その後の長屋王の問題に成っていったのであるが、大夫称号事件が起きた。
皇族でない藤原宮子は、天皇の母のその処遇に当初は大夫人と呼ぶ勅をだしが。
そこで長屋王は、勅に従っていれば問題が無かった。
処が長屋王は聖武に大夫人とは「令」に照らし合わせても呼ぶことが出来ないと発言した、皇を上に加えれば可能と進言、「令」を出して宮子の名を聖武に云ったことは悪意は無かったが、宮子に「皇」の一字を付けることで威光を持たせたかったのが本心だったろうが、律儀と言えば律儀、返って聖武天皇、光明皇后の威信を傷つける結果となった。
結局、長屋王の意見が通り「皇大夫人」となったが、口頭では「大御祖」と呼ぶことで落ち着いた。
天皇の発言に異を唱えたことの重大さに長屋王は気がついていなかった。
神亀三年(726)この頃より元正は体調を崩し、災害が起こり、信心深い聖武は写経や仏に寺院建立に励む日々であった。

翌年には待望の皇子の誕生に、宮廷の官人までが、明るく一変し祝賀に庶民まで恩恵を受け、税や免除が、物が振舞われた。
処が翌年、生後一年で皇子は世を去り、聖武、光明の落胆は計り知れないものだった。
この頃より益々、聖武、光明は仏への信心は深まり、大きく仏教へ傾いていくのである。
仏教への深まりは光明の影響から、余々に光明の発言力の強さへと変化していった。
鎮護国家への道は聖武と光明に取り最早、長屋王は邪魔な存在でしかなかった。

それもなんの予測も無く、突如神亀六年(729)二月十日の夜、六衛府の兵が長屋王の邸を取り囲んだ。
兵を指揮をしていたのは、藤原四兄弟の三男の宇合と次官であった。
手順として逃亡の恐れありと、地方の兵の混乱を避けるために、固関が実施された、三関(鈴鹿関、不破関、愛発関)これからの起こる政変に備えてである。
皇族からは、舎人親王、新田部親王、他、大納言、中納言、藤原武智麻呂などが長屋王の罪状を問うために門を叩いた。
その嫌疑は国家転覆罪、左道を持って天皇を呪詛したという疑いで取調べを受けた。
密告者は下級役人三人で、明らかに冤罪であるが、抗弁、弁明しても、覆るものではない。
長屋王は翌日には自決享年五十四歳のことだった。
自決の前に、妻子、吉備内親王と三人の子、膳夫王、葛木王、鉤取王と、石川夫人の子桑田王に毒を飲ませて絞殺、こうして長屋王家、北王家は悲劇の結末で滅亡した。
一族は生駒山の麓の平群に葬られ、吉備内親王には罪がないと理由でその葬を賎しくしてはならないと、長屋王の他の夫人、王子、女王には一切罪は問わない勅が下された。

十二  聖武と光明

①聖武帝の人となり

天武、持統、直系の皇子草壁、文武天皇を若くして亡くし、耐えて仲継ぎの女帝元明、元正と血脈の粛清をも越え、聖武天皇が即位し、同じ齢の光明を妃、皇后と、その間多くの有力皇族は消えた。
今や藤原一門を背景に事が進んでいく時代に成っていた。
期待の皇子の誕生に元明は孫の首皇子に対する思いは、帝王学は並々ならぬものがあった。
母宮子は病弱で、会えたのは聖武が成人してからのことだった。
幼い頃より、祖母元明に、伯母に元正に帝王学を教育され国内の博士、学者による、仏教の書経、唐の儒学など諸学を徹底的に教え込まれた。
聖武の出した勅の随所に出てくる言葉に。
「朕と民」「国に納める、朕の徳」処々に出てくる、大仏発願にも国を治める君主の心がけが、所々に出てくる。
君主としての振る舞い、気品、決して暴君ではない、信心深い面、理想を求め、気まぐれではあるが、律儀で博識で繊細である。
それに対して光明は十六歳で聖武に元に来て、常に行動的で活発な面があった。
平城京を二人三脚で歩んだ面は否めない。
光明子の性格は父不比等より、その気丈さは母県犬養三千代の影響の方が大きい。
聖武の人柄についての記述は無いが、光明について、「幼い頃より、総慧、敦く仏道を崇み、仁慈にして、志、物を救う」と評価は良い。
母の三千代は天武、持統、元明の四代の天皇に仕えた内命婦(高級女官)で天皇、皇后の身回りを世話をするものである。
その功績に橘宿禰の姓を賜った、平城京の門に「県犬養門」があるそんな由緒ある姓を賜ったのは、敏達天皇の五代目の美怒王に嫁ぎ、葛城王、佐為王、牟漏女王を生んだ。
不比等に見初められて、再婚して生まれたのが光明子であった。
特に県犬養三千代は聖徳太子に深い信仰を持っていて、法隆寺の三千代の「橘持念仏」が残されている。
そんな光明子の運命は十六歳で聖武と結婚し、十七歳で阿倍内親王が生まれて、二十七歳で待望の皇子、基皇子が生まれたが、一年後没し、その後は継子に恵まれなかった。

②  仏教への帰依
基皇子を失った後、二人は益々仏教に引かれて行ったが、やがて写経に没頭し、写経所を造り、国を上げ組織的に行われたようだ。
専門の写経する教師、校正、装潢生といった人達の集団が生まれ、仏典の一切教と言って全ての教を網羅して写経すると言うことに徹した。
写経についても、聖武直筆による、仏教関連の「雑集」は仏教による功徳を説いたもので、その書体からは律儀で、几帳面で純粋に仏教への求道心が窺い知れる。
これに対して光明の筆跡は男性的で、積極的な書体でその性格が顕著にあらわらている。
特に光明は興福寺の寺院の拡充に力を注ぎ、堂塔の東金堂、建立に天平二年には薬師寺の東塔、四月には興福寺の五重塔、天平五年には母三千代の供養に西塔を建立している。

十三  藤原四兄弟から橘諸兄

① 藤原四家の台頭

不比等が没し、代わって政権に就いた長屋王は八年で失脚、その後の政界を牛耳ったのは藤原四兄弟だった。
長男武智麻呂、次男房前、三男宇合、四男麻呂の兄弟であった。不比等が没する前には、それぞれ四人の息子には政治の中核に要職に就けてあって、自分の没後を考えて次の布石は打ってあって、抜かりが無かった。
平安を通して藤原家の隆盛は留まる所が無く、全ての要職は藤原一門で占められていたが、その基礎にあったのが、奈良時代の藤原四兄弟の活躍が無ければなしえなかったものである。

長子武智麻呂天武九年(680)生まれ、大学頭、図書頭を務め、近江守に任じ、その善政は評価され、長屋王の後任として式部卿に、後に東宮傳となって、首皇子の教育に当たり、その温厚な人柄は品位があったと「家伝」が伝え、居住していた所が、右京にあって、南家の祖と言われている。

次男房前天武六年(681)次男として生まれ、一歳上の武智麿とり早く朝政に入り要職に就いた。
参議、議政官に上がり、長屋王との親交が深く、武智麿呂の南に対して北に住んでいたので北家と呼ばれていた。

三男宇合持統八年(694)三男として生まれ、行動的な人柄で、遣唐使として唐に渡り、帰国後常陸守になり、兄の式部卿の後任に、蝦夷の反乱の制圧に、持節大将軍になり、遠征しこれを納めた。
参議、議政官に加わり、文武両面を持ち合わせ、長く式部卿を務めたので,式家と呼ばれるようになった。

四男麻呂持統九年(695)に生まれ、四男、左右京大夫(京職)を務め、主として平城京のぎょうせいにを受け持ち、参議から、議政官に加わった。

この四兄弟が朝政の重職に名を連ね、長屋王失脚から八年間その隆盛に時代が続いた。
光明とは異母兄弟に当たり、聖武に取っても母の兄弟になり血縁関係で深く結ばれていた。
安定した八年間は、国内、国外の目だった事件は起こらなかった。
ただ朝鮮半島の高句麗が滅んだ後は、突如出現した渤海国が国書を携えて使節がやって来た。

②  天然痘大流行
神亀二年(725)八月に、九州の大宰府管内で西海道諸国で疫病が大流行し始めた。
「続日本記」には天然痘と呼ばず「豌豆瘡」と呼んでいた。
勿論外国との交流の多い地区は当然そんな危険はついて回る。処が天然痘は治まるどころか、山陰道、山陽道を東上して、全国的な広がりを見せ、朝廷も何とか食い止めるべく、天然痘の進入を防ぐために「道饗祭」と言った祈祷、呪いをするしか方法が無かった。
そんな祈祷が効いたのか一時小康状態なったが、此の時に皇族や貴族、官僚などが倒れて言った。
中でも天武の子新田部皇子、舎人皇子も亡くなった。聖武、光明が熱心に写経する経典の収集するために、遣唐使が持ち帰った多数の貴重な経典の、見返りに厄介な天然痘を付いてくる側面を見せ付けられた。
天然痘の大流行で国家の機能がマヒし混乱をきたすようになっていった。

聖武、光明は天然痘の猛威を、またそれで亡くなった人達の供養に拍車が掛かったことは,云うまでもない。
天平八年(736)六月、聖武、光明は即位後三回目の芳野行幸に旅立つが、それがどんな意味を持つか定かではないが、十六日間も何を考えてか、天武系の蜂起した時の思い出の地で、疫病の苦悩の払拭のためか。
翌年一月、参議、兵部卿藤原麻呂が持節大使として、陸奥国に向け派遣されることになった。

③  東北政策と四兄弟の病死

この頃東北は蝦夷の動きが不穏な動きの、気配が伝えられて来た。
東北政策はその拠点造りと、民の移動させる事に大和政権の長年の摩擦で、一挙に解決できず、一進一退を繰り返していた。
柵から、城塞へと地道に北上していったのであるが、融和政策と強行突破とを織り交ぜながら、開拓、入植と蝦夷の分断、硬軟政策を講じなければならなかた。
物資の確保は、往路の整備に多くの人員を投入しなければならなかった。
この頃の大和朝廷の東北への支配勢力圏は多賀柵から、出羽柵までの最短路の往路を確保に途中に、雄勝村に拠点を造り、群家を置き、民の移動させるのに、陸奥按察使(鎮守将軍)の大野東人から混乱を鎮圧する為の要請があった。

騎兵千人を配置、前線の大野東人に精鋭隊百九十六人、玉造柵、新田柵、牧鹿柵など四百五十九人を配置、多賀柵に残る麻呂に三百四十五人を預け、その他陸奥国兵士や服従蝦夷の総勢六千人をもって色麻柵を出発した。

その頃都では、あの忌まわしい天然痘が再流行をしだし、麻呂の兄の参議、房前が天然痘で病死、次々と重職官人や貴族まで、感染し亡くなる事態に打つ手無く、政治の機能化に影響を与える程になってきった。
それは一般庶民、民、百姓まで感染し、世情が不安定になっていった。
最早、麻呂に取り東北遠征所ではなくなって来た。急遽、都に引き返した時には、大宰府弐小野老、中納言多冶比県守が亡くなり、帰郷して兄の見舞いに行って感染した麻呂は、七月に死亡四十三歳だった。
直後に、長男武智麻呂までもが天然痘で死去、そして続いて三男宇合までが死亡、四十四歳であった。
皇族の天智皇女、水主内親王までこの世を去った。
朝廷は諸神社に弊帛捧げ、宮中の十五カ所で僧七百人に大般若経と最勝経を講読させ祈祷をさせた。
あの隆盛を極めた、藤原四兄弟の相次ぐ死亡で、藤原政権はあっけなく消滅、意外な幕切れとなった。
次ぎに登場するのが、橘諸兄と、長屋王の変で失脚した、残った人々の復権であった。
一般に橘諸兄の起用については、光明の強い意志が働いていたのだろうと思われているが、また長屋王の王家の残された人々の復活も、聖武、光明の判断の誤りで、後に悔いと償いの意味を込めての処遇でもあるが、いずれにせよ藤原四兄弟が健在だとすれば、まずこれらの話は不可能だったと思われる。

橘諸兄は光明の異父兄弟の兄で橘三千代の子で、同じ異父兄弟の藤原四兄弟を失った今となっては心の支えになっていたのは間違いのないところである。

天平八年(736)葛城王を改め、橘諸兄が皇籍を離れ、臣籍に降り、橘宿禰の姓を祝う宴が開かれたと言う。
葛城王は敏達天皇より五代目の王族で父美努王と母犬養県三千代の間に生まれたが、弟の佐為王の王族も際立った存在ではなく、参議兼左大弁の地位だった。
天平十年(738)武智麻呂右大臣の死去の後に、橘諸兄が成ったことはひとえに母橘三千代の威光と後ろ盾が有っての事だろう。
諸兄も左為王も自ら願い出て臣籍を得たと言う、橘政権を示唆したのは光明である事は誰もが推測する事で、光明の身内で固めたい思いは当然の事だったのだろう。
そして贖罪で失脚した長屋王の弟の鈴鹿王が参議から知太政官事になり、隆盛を極めた藤原四兄弟の子からは武智麻呂の長子豊成が参議になた位なものだった。
藤原四兄弟の子たちはまだまだ若く政権に参画できるほどに要ったて居らず、した積みの時代にあった。

④  広嗣の乱

藤原一族に取り逆風であった。とりわけ宇合の子の、広嗣の事件が起きた。
広嗣は性格と素行が悪く、大宰府に左遷されてしまった。
その事がから、事件が勃発、大宰府の隼人を巻き込み、反乱軍と成った広嗣軍と、大将軍に任命された大野東人の広嗣征伐軍とが関門海峡を挟み、繰り広げられたが、政権に就いて間もない橘諸兄は直接指揮を取った様子もなく、聖武の敏速な指令で、あっさり広嗣が捕らえられ処刑されたが、政権の不安定さは否めなかった。

事の経緯はこうである。広嗣は、大和朝廷の不満をそのまま九州の隼人の民衆に潜在しているのを目に付け、不満を煽りたて自分の大宰府の兵と合流させ蜂起したが、大和の官兵諸国より一万七千を徴兵、広嗣軍の隼人とを分断させるため、畿内よりの隼人を派遣し戦力を弱める作戦を取った。

戦局は関門を渡り、板櫃川を挟んでの決戦となった。
広嗣は北周りの鞍手道から大隈、薩摩、筑前、豊後の五千の兵を広嗣の弟綱手が率いて進む予定が政府軍の豊前掌握に綱手軍が進路を絶たれが、結局、北へ遠賀川付近で広嗣軍、綱手軍が合流、そして板櫃川へと向った、官軍六千に対して広嗣軍、綱手軍総勢一万とが板櫃川を挟んで対峙した。
此の時の時の様子を、こう記されている。
官軍方の隼人から、広嗣軍の隼人へ動揺させ分断させる為に巧みな心理作戦の呼びかけに、裏切り、寝返るもの続出、広嗣の正当性のない反乱軍は、逆賊広嗣の陰謀が、陣営内にも暴露され九州各地より結集した郡司達も政府軍に帰順する者余々に増え、統制の利かない広嗣軍は西へ敗走、五島列島から、済州島付近まで行ったが、強い西風に拭き戻され、五島列島の宇久島で捉えられて、大宰府へ護送される途中で処刑された。

何故無謀な反乱を企てたのか、身内からも疎外され九州に左遷され、孤立感から、玄昉、下道真人への妬みは藤原一門への腹いせにあったのか、無名に近い二人は唐国に十七年も大陸の文化物品、備品、仏教の経典は新鮮なものだったに違いない、そして何より聖武や光明に取り求めたものは唐の情報が欲しかったに違いない。
大陸の情勢や、政治文化も気に成っていただろうし、また聖武の母の宮子の病気の怪しげな祈祷まで買って出た、益々聖武は玄昉を信じ切っていった。
異例の抜擢、成人に成るまで会えなかった母宮子の病を手懸け、効果が有ったか無かったは定かではないが、野心満々な政僧玄昉はたちまち政治の中枢に参入していった。
処がその後の政変で失脚した。天平十七年(747)九州は筑紫の観世音寺に左遷、翌年栄華を極めた玄昉は没した。
一方下道真人は出身の吉備の名を取り、吉備真備と改め、常に政治の中枢に有って、節目、節目に登場し重要な役割であり続け、孝謙の時代まで朝廷を支え続けた。

十四  迷想遷都の巡行

① 謎の巡行

広嗣の乱の終結を見ないままに、天平十二年(740)十月、突如聖武は、関東(鈴鹿の関)と、伊勢への行幸が決まった。
「考えるところあって、と」断りを云って鈴鹿王、豊成らに平城京の留守を命じ豊成の弟仲麻呂など率いる警護隊の兵士を前後にして、光明皇后、橘諸兄他重臣らと共に旅立った。
と言っても行き先は定まっていない放浪の巡行であった。十月三十九日平城京を東に堀越、名張郡家中に、伊勢の河口頓宮まで四日かけ、九日間の滞在中に使者を派遣して、伊勢神宮に奉幣、さらに北に向って、赤坂、朝明、石占、当伎、不破頓宮十五日かけて、着いて三日間滞在、さらに西南に向って横川、犬上、蒲生、野洲、栗津、玉井、恭仁宮に着いたのは十二月十五日、一ヶ月半も要して行幸の末に定められた地が、恭仁宮だった。
この聖武の巡行が前もって予定されていた行幸か、伊勢神宮よりは思いつくままの行幸だったのか、最近の発掘で途中で造られた頓宮跡の礎石跡から、直径三十センチの円柱が規則正しく立てられていて、頓宮が予想以上に大きく仮の宮にしては立派な宮であった事が判明している。
聖武の巡行予定が定められた準備周到な面が推測される。その行程が円を描く様に恭仁宮に向うには不自然とある。
一つには壬申の乱の軌跡を辿る、思い悩み天武を偲んでとも云われているが、単にその為にだけでは説得力に欠ける、
それには聖武の気まぐれと、新都を模索する迷想のの巡行でそれが伊勢神宮と、壬申の乱の軌跡が重なっただけの事だったのかも知れない。

②  恭仁宮

そして恭仁宮の造営が始まったが、この造営に加わったのが僧としては非公認の行基だった
流浪僧として社会事業に活躍していた行基は朝廷にと好ましくない人物であった。
勝手な行動を硬く禁じているが、民衆に人気があった。
この頃は、まだまだ仏教は一般のものではなく、国家祈願の信仰であかなかった。
だが行基にはそれだけの者ではなかった。寺院の建立、橋脚に工事技術や、河川の土手堤工事、溜池等の治水の知識に、着目したのが恭仁宮造営に朝廷は気ついた。
誰が聖武に進言したかは定かではないが、行基にとっても千載一隅の機会、逃すわけは無い。
これが行基にとって出世の大きな糸口になった事は云うまでもない。
恭仁宮は平城京から木津川を隔てて山間にある、造営の立地条件としては京城と違って、小さい宮城の認識で考えていたのだろう。
手取り早く、民、百姓を動員できればいい、そこで行基の手腕の発揮される事になる。
そして造営された恭仁宮の規模は、平城京と比べ七分二程度の大きさとあって、ここで充分に都ととして政治に行政に機能するかは疑問であるが、それにしても余りにも狭すぎる事は事実である。
全てこの恭二宮で出ない以上二元政治に、成らざるを得ないところ。
木津川を挟んで、恭仁宮と平城京との変則的な政治が進む中、聖武の気まぐれの、かねてより思案の国分寺、国分尼寺造営の詔が、天平十三年(741)に発せられた。

③  国分寺の配布

は小金光明四天王護国之寺、国分尼寺は法華滅罪之寺と云う。
仏像としては、釈迦仏像と脇時の文殊、普賢菩薩像を祀り、国ごとに国分寺、国分尼寺と仏像を配布すると言うものである。
国分寺は国と国とを分け、諸国に配布すると言うもので、仏教寺院と仏像による鎮護国家への第一歩である。
国分寺による国家の支配を円滑にするための利点を視野に入れての国策であった。
恭仁宮が造成中に、そんな最中に天平十四年(742)八月、紫信楽に行幸し、恭仁宮造営担当の智努王に直ちに紫信楽宮の造営を任命した。
恭仁宮、紫信楽宮と同時造立の進行といった慌しい中、その帰り、天平十五年(743)十月十五日、聖武は大仏造立の詔を発令した。
 
今日ある大仏より小さいが、大仏造立の初例となるもので、紫信楽宮跡に最近発掘され、恭仁宮、紫信楽宮を中心に大仏を造立し、本格的な首都圏を考えていたのでは無いだろうか。
金銅像の盧舎那仏、大仏構想は天平十二年二月に河内国の知識寺に訪れた折り、聖武はその金銅仏の盧舎那仏を見て感動と影響を受けた。
唐にもこういった大きな石造が盛んに洞窟に掘られている時代であった。
新都、大仏造立と無理があった聖武の構想は揺れ動き、難波宮を決意した。
孝徳帝の難波宮後、焼失し荒廃したとは言え、その後修理を加えて副都としての機能を備えていたのである。

④  還都の決意

天平十六年(744)正月朝賀も中止、十五日には難波宮に行幸となったが、
民、百姓ら徴用された夫役は経済的にも疲弊し切っていた。
聖武の理想の迷走に振り回された過酷な時代ではあるが、諸国から徴用された民、百姓にとってこれ以上の国家事業は限界に近いものがあった。
強権聖武が目まぐるしく変わる遷都、大仏造営に、少しは気遣いが有ったのか、朝堂に重臣、官人を集めて、聖武は問うた。意見を述べたとしても叶えられるものではないが、ほんの参考程度だったが、恭仁宮、難波宮いずれが都として良いかと、その問いに、
恭仁宮が百七十四名
難波宮が百五十三名
恭仁宮は平城京を含んだもので、再度難波宮移転を考えた場合と比べれば、恭仁宮への選択の方が賢明である。
疲弊し切った民、百姓ならずとも官人、重役もそう思ったに違いない。
だが聖武は難波宮への遷都を決行したようである、此の時から記述に、天皇の証である「駅鈴と内印」天皇にのみ持つ事を許されるもの。「外印は」太政大臣が持つ事を許される。
難波宮に運ばせ、諸国の役人に上京するように指示を出した。
この辺りから天皇の権威を表す物が多く出てくる。
天皇の椅子、高御座と、都の証である大楯まで恭仁宮から難波宮に運ばせ、難波宮への遷都をする事を意志表示をした。
ここで聖武に取り衝撃的な事件が起きた、安積皇子の死亡したのである。
聖武には光明との間に阿倍内親王が皇太子としていたが、万が一の継嗣として安積皇子の存在があった。
聖武が遷都に点々として移動している間に起きた、大和より生駒山を越え河内の国に入った処、桜井頓宮で安積皇子の腰病(脚気)を発病し、急遽恭仁宮に引き返した、その二日後に恭仁宮で急死した。

脚気で急死は不自然に思える、聖武のいない恭仁宮で死亡したことは、後々の世にも疑問と憶測を呼ぶものである。
この安積皇子は成人して十七歳、幼い頃より謬弱とは云え、阿倍内親王の次期継嗣を強固にする為に、この遷都に乗じて藤原一門の関与があったのかと推測される。
聖武は難波宮が整備をされていく中、再び紫信楽宮に行幸し、天平十七年(745)にはこの紫信楽宮を甲賀宮と名を改め、大仏の造立に力を注ぎ始め、甲賀宮が正式に都と定められてから四ヵ月後、平城京の大安寺、薬師寺、元興寺、興福寺の四大寺に使者を送り、聖武よほど迷いがあったのか、都をいずれにするか僧に問いかけた。
遷都を繰り返す内に、疑心暗鬼何が真実か分からなくなって自信が持てなくなっていた。
身内や周りのものは聖武を恐れ本当のことを言えず、ならば僧にということで、問うたのではと思われる。
処が紫信楽宮が火事が多発、治安が乱れている事に、聖武嫌気をさして平城京に還都を決意、人々の喜びは、途中の出迎えの人々の声は何時しか「万歳」に変わっていたという。
天平十二年(740)より四年余り「遷都迷想の巡行」は民、百姓まで結果的に苦しみと、疲弊させるだけに終わってしまった。

一体聖武の求めた理想の王都とは、幻想だったのか、それとも唐の長安京を目指したのかは、定かでないが、聖武天皇が名君だったのか、単なる暴君だったのかは別にして、天皇としての格式と権威を知らしめた古代の天皇を代表する天皇の一人だった。

十五  総国分寺と大仏造営

① 大仏造立への道


天平十七年(745)四年半ぶりに平城京に戻ってきた聖武は、中宮を住居として、光明は「官寺」(旧皇后宮)を住まいとして平城京の生活が始まった。
この頃の、平城京は度重なる遷都、紫信楽宮、恭仁宮造営に平城京の建物物を資材として持ち去った跡で、荒廃していたと思われ、新たな整備再建が必要であった。
それでも聖武は大仏の事は忘れなかった。
紫信楽宮で断念した、造営の地の候補を平城京の東山の外京にある金光明寺(金鍾寺)に大仏の造立場所と定められた。
国分寺構想と大仏造立構想とは一体化したもので、国分寺は諸国に一寺づつ配布し、国家管理の下に、諸国の一国の安泰の祈願寺として、総国分寺は鎮護国家の祈願としての構想で、しかも本尊の廬舎那仏は仏界を君臨し支配するもので、そういった情報は入唐した玄昉、吉備真備の大陸の動きや、敦煌の石仏の造立の話は即座に伝わっていただろう。
大陸の唐王朝は強固で強権国家体制に仏教を取り入れ、高宗皇帝と、則天武后の仏像は八五尺と言う壮大な仏像であった。
時代は華厳経に出てくる「梵網経」の世界の「盧舎那仏」を造りたい、五年前の国分寺で拝み「朕も造り奉らん」との、思いは変わらなかった。
もともと日本は神の国、天皇は(大王)生き神として「現人神」が天皇であった。
神が仏を拝む事は、随分矛盾した話であった。
しかし聖武の世界観は大陸の唐国も視野に有った。
だが唐に巨大金銅仏造立は例を見ない。聖武は壮大で未曾有の大事業を国家の威信に懸け計画は進められた。
この国家大事業に参画したのは、行基、良弁だった。行基と良弁の抜擢に反して凋落の一途をたどったのは、広嗣の乱の発端になった、あの異例の出世をした、玄昉だった、九州は観世音寺に左遷されて、同じ頃寂しく没していた。
行基は道昭に師事し法相僧で、生まれは河内国で渡来人の子、十三歳で出家し諸国を流浪行脚、各地に多くの足跡や伝説を残した。
謎が多いが、学僧としてより、社会事業の方面での功績が大きく、橋、溜池、墓地の整備、道路、寺院の再建、なかでの僧としての理想の「布施屋」「舟屋」を造った。
「布施屋」は小屋の中に布施箱を設置し、豊かな者は、施しの金を入れ、貧しい者は必要な金を持っていき、金が出来れば返す理想の福祉だった。
「舟屋」は宿泊施設で雨、露を一時的にしのぐ為の宿である、実際そのようは理想の社会を古代に実行された事は、その成果は別にしてたいしたものである。
夢のような社会を目指した、行基は絶大な人気をもって民、百姓に受けいれらていたようだ、生きながら「菩薩」の称号を賜ったのは行基位なものである。

だが行基が大仏造立に抜擢された時は、七十七歳に達していたので、その求心力と経験頼みだった。
まさに行基の、老骨に鞭を打っての貢献であったことは、間違いが無い所である。
もう一人の中心人物こそ、良弁であるが、義淵に法相を学び、東大寺造立の地に金鍾寺の建立の僧こそ良弁であった。
法相から華厳へ、いち早く時代の流れを察知し、華厳講読を始めた先見の僧であった。
東大寺造営時、良弁、五十六歳だった。行基七十七歳の二人を中心に次ぎのような布陣で取り掛かった。
造東大寺司の官人の構成、長官一人、次官一人、判官四人、主典四人と言った人営であった。
過去に日本人が経験したことの無い、巨大金銅仏、大仏を納める大仏殿も経験したことの無い大きな木造建築に、唐の技術工法が無ければなしえなかっただろう。
その影に渡来人の技術力なしでは進められ無かっだろう。
また日本独自の伝統工法を取り入れられて、いわば和唐折中案で、手探りでの造営であった。
大仏造立に約七年、設計、立案、指導に当たったのは、国中公麻呂で白村江の戦いで破れ渡来した百済人の子孫という。
現在の大仏はその後、再建されたり、修復されていて、下層部だけが天平の物として残っていて全体像としては、作られた当時から比べれば、形が変わっていたのかも知れない。
大仏の本体の金銅は青銅が使用されていて、重量約3百トン使われていてその青銅の産出は長門の国の、長登銅山から産出されたものとで、平城京に運ばれ、工程は体骨柱を芯に像型を造り、それを八回に分け銅を溶かし流し込むものである。
そういった鋳造は二人の大鋳師の試行錯誤しながら進めていく、問題は総仕上げの金塗装する金の調達にあった。
金色に輝く荘厳な大仏は、聖武の深い思いの荘厳の世界なのである。
巨大な大仏に塗る金が無い、表面積を塗る膨大な金は約六十㌔は必要とされていた。
鋳造も最終段階に入ったころ、天平二十一年(749)に、陸奥国から金の産出の知らせが入った、その後下野国からも金の産出の知らせが入り、聖武の悩みは一応解消された。
また巨大な大仏を納める大仏殿の木材の調達は、畿内からは調達できず、遠くは周防や播磨から五十本の柱を伐採し瀬戸内海を渡り、淀川を、木津川を添って綱を岸から引き、平城京の北側で陸揚げされて、東大寺まで運ばれた。

諸国から動員された夫役の人夫の数は、延べ人数二百二十万人と言われている。また銅を溶かす炭の量と、炭造りの人数、木材の刈り出し、金の、銅の鉱山の掘削に狩り出された人々の末端の数は途方も無い人数と、汗と苦しみの労力が無ければ成し得なかった、大事業であった。
記述に拠れば「材木知識五万二千七十五人、役夫百六十六万五千七十一人」、
「金知識三十七万二千七十五人、役夫五十一万四百九十人」

②  聖武帝の世界観と華厳の世界

聖武は当初は国分寺、国分尼寺、諸国の一国一寺、本尊は釈迦如来、経は金光明経、大般若経、法華経、ところが国分寺の総本山の東大寺は本尊は盧舎那仏で経は華厳経と梵網経である。
この華厳経、梵網経の世界こそ、聖武が国を治める理想世界と合致、君臨する、仏界に君臨する盧舎那仏と重ね合わせ、求めとものと思われる。
本来仏教の世界は、釈迦が悟りを開き如来(ブッダ)になった。
人間が悟りを開き仏になった、実在した釈迦が悟りを得て成った仏を「応身仏」と言う。
所が廬舎那仏は仏教の世界で存在する仏で、法身仏である。
仏法と言う架空の世界で存在する仏が廬舎那仏なのである。
釈迦の世界では、釈迦滅後五百年間は、「正法」といって世界は仏法で保たれているが、その後千年間は何とか形だけの「像法」で保たれ、その後の世界は法の無い「末法」の無法の世界と言われた。
丁度釈迦滅後の千五百年後の平安時代の人々は、不安と危機感に襲われて、迷い救いを求めた。そんな折に仏教の救い手として、多くの高僧が生まれ「立宗開花」させたが。
無法の世界から救済するために、兜卒天で修行する「弥勒菩薩」が存在した。
聖武は、そんな釈迦の世界に我慢がならなかった。
盧舎那仏大仏の弁座の一つ一つに刻み込まれた、「蓮華蔵」世界では、その一葉ごとに「百億の釈迦」いてそれぞれに須弥山を中心とする世界に座している。

須弥山は高さ八万四千由准旬(一万五千六百メートル)の山で徳利逆さに伏せた様な形をして、腰細でその根元の周囲の海を七重の金山が取り巻き、日本、シナ、インド、のある閻浮提は一番外に大海に浮く島である。
日や月は須弥山の外を廻る、仏教の天動説である。
その須弥山の世界が千集まって、一千世界小世界、小世界が千集まって中世界、その中世界が千集まって大世界、そこから外は「金輪際」という。
この三千世界に君臨するのが「盧舎那仏」なのである。
如何にも聖武帝の好みの論理の世界である。


十六  孝謙と仲麻呂政権

①  聖武の晩年

天平二十一年(749)大僧正行基より、聖武、菩薩戒を受け、出家した。
異例の異例、歴代天皇で初例である。
天皇は「現人神」、皇孫の取りあるまじき事であった。
伊勢神宮にも奉幣に行幸に行っても拝むことは無い、何故なら神が神を拝むことはむ矛盾しているからである。前代未聞の事を誰も止めるものがなかった。
耳を貸す聖武では無かった。元正太上も前年に没し、仏門に帰依し没頭する聖武には、あの遷都を重ねた気力は消え、大仏に全てを懸け造営の進み具合に足を箱び完成を心待ちするのである。
天平勝宝元年(722)皇子の継嗣のない聖武帝にとり一抹の不安を覚えながら、七月阿倍内親王に譲位した。即位し孝謙天皇が誕生した。
時に孝謙天皇三十一歳でしかも独身であった。
女帝出産の例は無く、聖武選択肢が無く阿倍内親王に譲位に成ったようで、その後の波乱の要素含み即位だった。

大仏の完成間近にして、何故今頃に九州は宇佐八幡社より、八幡大神が京に向った。
大仏造営には、神国の神の宣託が必要だった。
それが伊勢神宮で無く、何故九州地方の鎮守豊前の宇佐八幡大神だったのかは疑問と謎は残る。
そこで平城京で宣託の儀式が執り行なわれたという。
現在も東大寺の境内にのこっているが。「手向山八幡宮」である。


②  大仏開眼

天平勝宝四年(752)四月九日、聖武帝に取り待ちに待った生涯で最も記念すべき、感動の日だった。
この日に大仏の開眼供養が挙行された。
金色に輝く大仏を前には、聖武、光明、孝謙が真っ赤な布を敷いた別席に座し、位並ぶ皇族、貴族重臣、官人らが参列する中、南門より導師菩提を先頭に、1千余名の僧侶が入場、その他一般僧尼、沙彌合わせ一万人に及ぶ人々が参列した。
かねてより聖武より託されていた筆で目に書き入れる儀式が行われた。
金色に輝く大仏の顔の前までの高台の上には、菩提が筆を持ち、その手に「開眼縷」(藍染の絹縄)が結ばれた長い紐は、長く伸びて聖武、光明、孝謙らの手にしっかりと握られ、こうして粛々と厳かに、鳴り響く鐘と、祈りの読経が流れた。
大仏は大きな金銅物の物体から、魂が吹き込まれ「盧舎那物」へと成った瞬間であった。
続いて読経、雅楽、色あでやかな幕が風に翻り、こうして滞り無く終えることが出来た。

③ 橘諸兄から仲麻呂へ

天平勝宝六年(754)唐で誉れも高い、高僧鑑真が薩摩に漂着した。
再三の日本への招請に五度の渡航に失敗、そんな鑑真を聖武は心より歓迎し、長旅の苦労を労い平城京に招き、大仏殿未完成の東大寺の臨時の、戒壇院で、聖武、光明、孝謙は菩薩戒を授けられた。
その後、鑑真は新田部親王跡地を、与えられ戒律の道場として、「唐招提寺」を建立し、平城京の律宗の拠点となった。

天平勝宝八年(756)二月、聖武帝の裏方で政権を担って十八年間、橘諸兄が致仕、自らその職を辞した。
この年、聖武は難波宮に行幸し、帰って来て十日後の五月二日、天平の貴公子、申しの天皇は五十六歳でこの世を去った。
時代は孝謙天皇に移っていったが、次ぎに登場したのが、藤原仲麻呂であった。
藤原仲麻呂は、藤原武智麻呂の次男で兄は豊成は右大臣で仲麻呂は大納言であったが、早くよりその持ち前の気転の良さで頭角を現してきた。
聖武亡き後、孝謙の後継者が急がれていた。
誰を立太子にすれば良いかに、ここで天武系が途絶えるか、命運が掛かっていた。
聖武帝が死に際にその旨仲麻呂に託している。
人柄、血筋の中から、聖武の意中の後継者として、新田部親王の皇子、塩焼王、道祖王と、舎人親王の皇子、船王、大炊王に絞られていたようだ。
こうして聖武の死の日に、急遽道祖王に定められた。
立太子した道祖王は四十歳、孝謙より一歳上であった。
少し不自然の処があったが、仲麻呂の強い推挙があったのかと思われる。
処が無理があったのか、道祖王が立太子して僅か十一ヵ月で廃太子の話が持ち上がり、孝謙、豊成、仲麻呂らの重臣を集め協議された。
その席上光明は聖武の喪中にも関わらず、行状は芳しくないと道祖王の廃太子
が決定された。
そこで舎人親王の王子から選択になった、船王、池田王は人柄に難があって結局、大炊王を孝謙は指した。
豊成ら重臣ら同意、即日の内に立太子の儀式が行われた

いかに後継者選びに場当たりに決められていたかが知れる。
突出した後継者がいなかったか、露呈した交替劇であったかが窺い知れる。
長年に渡る後継の淘汰によって、選択の皇子がいなかったことである。
仲麻呂は伯母の光明の威光で発言力や権力を強める中、反発が強くなるのは当然の事である。
その一つに政権の座から降りた諸兄の子橘奈良麻呂の政権転覆計画が密告によって発覚した。
参集した三十人の内、長屋王の子、黄文王、安宿王も入っていたので、ことは複雑になってきた。
この事件は、何かの陰謀が潜んでいない訳でもない。
失脚した長屋王の王子と、橘諸兄の王子が絡んでいて、復権の要因ともなっている。
塩焼王、道祖王、黄文王、安宿王の何れかを天皇に擁立しようという話である。
聖武を失った朝廷は、皇族内の求心力の低下はやむ得ない所だった。
孝謙や光明の女帝では抑え切れない部分があったのだろう。

この頃より、また天皇の権威と象徴の証として「駅鈴」と「内印」が出てくる。
密告のあった時、孝謙と、光明は同じ場所に、皇太后宮にいて、「駅鈴」「内印」が手元に置かれてあって、謀反の場合正統の証のしるしとして、度々この「駅鈴内印」が出てくるのである。
実は橘奈良麻呂は、これまで謀反の企てを何度かした経緯があって、その都度、光明の取り成しで穏便にしてもらった過去がある。
記述によれば相当な性質の悪さを述べられていて、かなり朝廷に不満を持っていたらしい。
父諸兄の敵対していた、仲麻呂を打つべく、精兵四百人で包囲する予定で、決行の日、長屋王の子、山背王の密告により失敗、反仲麻呂の者連座して、その地位を失い、加担した皇族は黄文王、道祖王は改名、安宿王は流罪、重臣、官人なで総数四百四十三人が解任、失脚した。
この事件での大掛かりな処分で、仲麻呂の兄の豊成までその監督責任を問われ
て罰せられた。
結果的に反仲麻呂派が一掃されて粛清された形で落着した。
以後益々仲麻呂の強権専制時代に移って行った。

④  淳仁天皇即位

天平宝字二年(758)孝謙天皇譲位して、大炊王が即位、ここに淳仁天皇が誕生したのである。
この淳仁天皇の出現も仲麻呂が仕組んだ演出であって、画策以外に何物もない事は知るところである。
孝謙と共に、操り天皇に仕立て上げ自分たちの都合にあった、政治を取るための天皇だった。
強権仲麻呂は大宝律令さえ簡単に変えてしまい、官名の変更さえ自分好みの唐風に変えてしまった。
天皇の権威を蔑ろにする者であった。
手始めに、光明や孝謙に仰々しい称号を贈り、機嫌を伺い口を挟まないように仕向けていった。
孝謙には「宝字称徳孝謙皇帝」と光明には「天平応真仁皇太后」と云う名称を就ける気の使いようである。官職の役所名に至っては、太政大臣を大師に、左大臣に大傅に、右大臣に太保に、八省については、中務省を信部省、式部省を信部省、民部省を仁部省、兵部省を式部省、刑部省を義部省といったように唐風に変えてしまった。
思うままに権力を手に入れた仲麻呂は、自分の名前の姓まで変えてしまった。
藤原恵美朝臣と改め、名を押勝と名乗り、以後仲麻呂は藤原押勝が通称になった。
また農業政策として功封、功田、鋳銭、出挙の権利が押勝家の「私印」使用の許可されて、絶大なる異例の権利があたえられた。
この時点で孝謙、押勝の強引な駆け引きに、淳仁天皇は言いなりの影の薄い存在だった。
押勝は孝謙から大師(太政大臣)の地位を賜った。
この頃の国内、国外の課題政策は東北の天平時代の維持と拡大にあったが、押勝の東北経営強化は、陸奥国で挑生城、出羽国では雄勝城の造営の強化にあった。多賀城の大改造など押勝の子朝狩があたっていた。
対外的には新羅の関係は良好とは云えず、従属を要求する日本と、対等な関係を求める新羅と、一時は新羅討伐の準備が成されたが中止になった。
この頃同じ半島で渤海国の台頭があって、新羅との関係は後回しにされた。
渤海国から入った情報では、唐の国内の不安定情勢が伝えられて、大宰府では緊張が走った。
押勝政済政策が二つあって、和銅開珎依頼五十二年振りの金銭、「開基勝宝」、銀「銭太平元宝」が発行された。
平準署、常平倉の設置があって、物価の流通の安定の施策で、二件とも中国の
制度を取り入れたものであった。
強権押勝専制も叔母光明の後ろ楯があってのことだった。
天平宝字四年(760)六月、光明皇太皇后が死去。その後孝謙、淳仁、押勝の利害関係が表面化してくるのであった。
天皇の象徴の証である「鈴印」が光明の手元にあったものを、「鈴印」は新天皇の淳仁の許に移された。
傀儡であった淳仁に「鈴印」が渡れば、押勝に取り何も気にせず思うようになった。
光明死去後、淳仁天皇を間に、孝謙、押勝の王権を懸けて露骨に駆け引きが表面化してくるのである。
押勝は叔母の光明子の死を荘厳に供養し儀式を盛大に行った、誰もが合意の上の儀式だが、式典を取り仕切る押勝の誇示する場と成っていた。
熱心な光明の写経の継続と、奈良全寺院と、諸国の国分寺の斎会を挙行し、光明の威徳を偲び「阿弥陀仏」画像や仏像を一周忌斎会まで順次、孝謙が進めていった。
そんな中、平城京の内裏改修の為に定かではないが、「保良宮」の仮宮への遷都があって、その場所が大津国分寺付近の石山寺の近くとの推測されるが、それも淳仁天皇と孝謙太上天皇の住まいの二箇所の宮が必要になった。
もう一つの仮宮は飛鳥の雷丘付近の小田宮のその存在していたと言うが、二元天皇で離れた仮宮の必要なのは微妙な権力構造があった。
天平宝字六年(762)淳仁と孝謙とが平城京に戻ってきてからは益々険悪な対立が深まって行った。
淳仁は用意された内裏の中宮院に入居したのに対して、孝謙は光明の以前の法華寺に縁の住まいに決めた。
入居した十日後に五位以上の官人を朝堂の集め、孝謙は淳仁を激しく非難した。
自分は草壁皇子の皇継が絶えるので、女性であるが政務をとった。
今の帝は(淳仁)を即位させたが、礼儀を正しくしない、自分のいうことも聞かない。
自分の徳が無いからこうゆう事になった。そうして自分は出家するが、日常の祭祀などは今の帝が行い、賞罰など国家の大事は自分が行う。
と言って。二元政治を宣言した。
こうして孝謙は淳仁と政務を分担しようと提案したのであるが、天皇の証の「鈴印」は淳仁の手許にあって、発言力は孝謙の方が強く、中宮院、法華寺の皇権は分裂をしていた。

⑤  道鏡の台頭と押勝の失脚


対立をより一層深める要因に「道鏡」の出現にあった。
道鏡は、その出自ついては、河内国で俗姓は弓削連、禅の修業をして宮中の内道場に入って、看護禅師となった。
玄昉が同じく宮中に入り聖武の母宮子の病を治したのとよく似ている筋書きで頭角を現し、時折孝謙の看病に当たり、余々に信頼を得て寵愛されていった。
よくひたりの中を揶揄されているが、それを打ち消すように、孝謙は出家し疑いを消そうとした。
何れにせよ、素性のはっきりしない道鏡が東大寺の僧網に選ばれ、少僧都に抜擢され、反押勝の人々の役職の復活の人事異動を孝謙は考えていた。
処が押勝は、軍政を掌握し畿内はもとより、近江、丹波、播磨など治水政策と称し、兵力を徴発し、増強していった。
孝謙は止める事も出来ず、制度上押勝の役職の権限であった。
黙認する以外に無かった、こういった軍事力を背景に押勝は、孝謙太上天皇の失脚を画策をしていた。
こう云った押勝の動きを、密告により察知していた孝謙が、先手を打った。
山村王(用明天皇系)を使い、淳仁の手元にある、「鈴印」を奪取を企て成功したが、「鈴印」奪われたことに気ずいた、押勝は、淳仁の警護をしていた、押勝の子訓儒麻呂に命じて奪い返したのである。
山村王が「鈴印」を奪い返された事を知った、授刀舎人の物部磯波が孝謙に通報した。
まるで時代劇の喜劇映画を見るように、孝謙は授刀少尉坂上苅田麻呂と、授刀
将曹牧鹿嶋足に「鈴印」奪還を命じた。
「鈴印」争奪戦を巡る戦いは、中宮院と法華寺の間で繰り広げられた。
この戦いで、訓儒麻呂は坂上苅田麻呂に弓に打たれ射殺された。
再び山村王に「鈴印」が戻り、押勝は鎮国衛の矢田部老に、山村王を追わせて再度「鈴印」を奪取させようとしたが、矢田部老は授刀紀船守に射殺されて、結局、山村王の手から孝謙太上天皇に渡された。
「鈴印」を得た孝謙は直ちに押勝を大師(太政大臣)を解任し全ての身分財産を、没収し固関を命じた。
逃亡しないように、三路の関を封鎖したのである。
一方押勝は同日の夜「外印」を持って近江国に向った。
「外印」太政大臣が持つ権威の象徴で、まだ近江国方面は押勝支配地であった。
とりあえず近江に逃れ、東海道、伊勢、美濃国、越前国へと逃れ態勢を立て直して、支配領地に拠点を造れば活路が見出されるかも知れないと思ったのであろう。
大師(太政大臣)押勝は「外印」を持ち、三関と諸国を支配下にあっても、天皇の持つ「内印」の権威には勝てず、押勝は琵琶湖を渡り、北陸道へ逃れようとしたが、それを察知した孝謙方は瀬田川に架かる橋を焼き落とした。
結果押勝は琵琶湖を西へ北上したが、孝謙が出した「勅」は行き先々に伝わり、越前国を急襲した孝謙方は、押勝方を挟み撃ちにする形になった。
押勝は平城京を脱出して、僅か二日間余りの逃亡で、琵琶湖の湖上の露と消えた。
長年に渡るその傲慢さは、何人にも同情を覚える者が無かった。
押勝を失った傀儡の淳仁天皇は、最早糸のきれた「凧」のようなもの、落下あるのみだった。
押勝が敗死して一ヶ月足らずで、孝謙は数百の兵を派遣し淳仁の中宮院を包囲、天皇廃して、大炊親王として、淡路に幽閉された。
淳仁のことを淡路公と称し、再び大和に戻ることはなかった。


十七  称徳と道鏡

①  道鏡の出世


押勝の乱は終わって、左遷されていた豊成が右大臣に復活、道鏡大臣禅師と就任した。
同時に孝謙は重乍し、称徳天皇となった。
押勝の乱、淳仁廃帝と政治の混乱と、天候異変で飢餓と兵乱で世情は不安に拍車を掛けた。
天平神護元年(765)十月、称徳は草壁皇子の山陵に参拝し、紀伊国の和歌の浦近辺で遊び、帰りにわざわざ道鏡の故郷の河内国弓削寺を訪れて、道鏡に太政大臣に任じて平城京に戻ったが、異例の異例、不詳の怪僧道鏡の抜擢に、皇族、重臣はただ見守るだけであった。
またこの時の紀伊国への行幸と、淡路国の幽閉中の大炊王の死亡と不思議と符合するのは単なる偶然だろうかと、その後で疑念がのこる。
あくまで大炊王の復活を恐れ感じ、封じにいったのかも知れない。
皇位継承者の芽を摘む、たとえそれが小さくとも消してしまう、それが称徳の性格の一端を窺えるもであった。
その翌年兵部卿の、和気王の謀反事件であった。和気王は舎人親王の孫で叔父淳仁天皇即位と共に皇族に戻ったが、押勝の乱の謀反計画を密告し難を逃れたかに見えたが、称徳と道鏡の死を祈願し、願文を書き綴ったと言う罪で、絞殺された。
橘奈良麻呂事件でも黄文王、道祖王、安宿王、の三人の有力な皇位継承者は失脚し、この頃には称徳以後の皇継者は見当たらなくなっていた。
称徳は皇太子の不在のままに、降って湧いたような道鏡の出現はあれよあれよといっている間に、称徳の次ぐ権力者になっていた。
まさに奈良麻呂事件、押勝の乱、淳仁失脚の混乱に乗じて、出世していった道鏡はいったいどうゆう経緯で上り詰めて言ったか詳しく分かっていない。
河内国は弓削の弓削連で、義淵に師事し法相を学び、梵文を通じ、禅行を認められ、内道場の孝謙の看病に当たり、政争の混乱と同時に、「道鏡太政大臣禅師」の誕生させ、天皇のみ受けられる、官人より、「拝賀」を受けた。
天平神護二年(766)海竜王寺より、舎利の出現を受け、称徳は行幸し、太政大臣禅師を法王にする口実だった。
さらに道鏡の弟の御浄浄人を中納言に、弟子の円興を大僧都から法臣、円興の弟子の基真を法参議大律師と身内で固めていった。
有し依頼前代見聞の出来事が次々と起こっていった。

②  称徳の功罪

称徳の一途な性格は聖武、気丈さは光明譲りだった。父聖武に負けない、仏教の偉業を残したい。
そんな思いがあったのか、西大寺の造営がそれであった、百万塔の造立であった。東大寺に対して平城京の西に、西大寺を、天平神護二年(766)本格的に造立されたと言う。
当時右京一条三,四坊に三十一坪という、東大寺より敷地は少し広めの、広大な空き地があったわけがない。
詳細は解っていないのが実情である。
境内の中心に、東西六十メートル、南北二十メートルの二重屋根を持った大規模な建立物は「弥勒堂」内部は弥勒菩薩と七十七対の仏像が残っている。
光明の影響か浄土信仰の極楽往生の世界を出現させ、称徳の心の揺れを癒していたのだろう。
西大寺と、ともに残した物に百万塔の大事業がある。
塔といっても高さ二十一センチ余り、木製の三重の塔で、塔身の上端しに開けられた小さな穴に日本最古の刷物の陀羅尼がおさめられてある。
これを百万個作り将とするもので、鎌倉時代の遊行上人、一遍が行った「南無阿弥陀仏往生決定六十万人」と刷た札を配る、賦算事業は、この称徳の百万塔供養が先駆者かも知れない。
聖武が、諸国に国分寺、国分尼寺を配布した様に、称徳も国家安泰を祈願をしていたのだろう。
こうして称徳、道鏡の熱心に仏教事業を進める中、起きた不幸な事件が、不破内親王の失脚事件だった。
称徳の数少ない血縁の一人である、異母姉妹である。嫌疑は称徳に呪詛した疑いである。
不破内親王は、厨女と改名させられて、京外に追放させられた。
無論、道鏡が仕組んだとしか、考えられない。道鏡政権は誰もが、にがにがしく思っていても、どうすることが出来なかった。
孝謙の後ろ盾と、皇継者に対しての排除はあからさまであった。
皇権に近ければ近いほど、身に危険が一杯であることを歴史は物語る。
不破内親王はその後も数奇な運命を辿る。改名させられただけに終わらず、後の光仁天皇が即位したと同時に復権し元の不破内親王に許されたが、天応二年(782不破内親王の子の、氷上川継の謀反事件で連座して淡路に流されて悲運な生涯を終えている。
聖武の皇女だけで政変に巻き込まれる、運命だった。

③  道鏡天皇への道

こうして道鏡法王は着々と足場を固め、後は正式に天皇の手続きをするだけであった。
神護景雲三年(769)七月、道鏡法王は官職印を使い、十月には称徳、由義宮行幸し、由義宮を西京とし、河内職を設置する。
こんな時に、大宰府の祭祀の担当する習宣阿曾麻呂が。
「道鏡を天皇にしたなら、天下は太平になろう、と宇佐八幡がいっている」
道鏡に触れ込んだと言う。
この話に道鏡は、大いに喜んだ。早速称徳に報告したと言う。
そこで称徳は八幡神の、宣託の真偽を確かめるために、和気清麻呂に、姉の尼法均に付き添って八幡神に赴くように命じた。九州の八幡神に和気家清呂赴く前に、道鏡は法王宮職に招き、清麻呂をもてなし、良い宣託を持ち帰ってきたならば、大臣にしてやろうと、暗に持ちかけたと言う。

使者は夏にかけ出かけて、秋も深まっていた頃、称徳も道鏡の胸を膨らませていた。
道鏡は天皇に準ずる実験を持ていても、正式な天皇でない。
と云ってもこのまま大儀名分のないままに、道鏡を天皇にしてしまえば、従来からの豪族や重臣の反発は必死であり、その手立てが無いかと思っていたところの、八幡神から持ちかけた話であった。
称徳も道鏡も期待は大きく、信託こそ唯一の解決、方法だった。
処が和気清麻呂が九州は八幡神から持ち帰った宣託は意外な内容い様だった。
「わが国始まって以来、君臣の順序が定まっている、臣が君になったことはない、皇位には必ず天皇家の血筋を引く者を立てよ」
と宣託し、道鏡を排除する物であった。
これには称徳も道鏡も怒り、宣託は捏造と決め付け、清麻呂に穢麻呂に姉の法均に狭虫と改名させて、大隈と備後に配流した。
これについては、こう云った筋書きを立てて道鏡を策にはめ込んだと思われる。
称徳も神に宣託には、そう無理押しも出来なかったのだろう。
それにしても清麻路は命がけに演じたことの勇気は賞賛に当たる。
その後称徳は由義宮に行幸し、西京として弓削宮行幸として、河内国大県、若江、高安三郡を整備し、明けて神護景雲四年(770)二月由義宮に行幸し、三月半に急病に倒れ、四月に平城京で還御した。
時、称徳享年五十三歳であった。

④  白壁王の天皇即位

称徳を失った道鏡は、惨めな者で「虎の衣を借る狐」その没落は想像に値する。
後は旧来の重臣、皇族の皇継者の模索と選考に入った。
左大臣藤原永手を中心に、右大臣吉備真備、大納言白壁王と参議藤原宿麻呂(良継)、皇親の中より次期天皇の人選に入った。
この人選に次の政権を担う、永手、良継らが入っていたことは、凡そその方針は決まっていたようなものである。
事件、反乱の連座などで主だった皇族の後継者は限られていた、文室浄三(智努王)とその弟の文室大市(太市王)そして唯一の天智系の天智の孫の白壁王だった。
白壁王が表に顔を出したのは始めてであった。
浄三、大市を指したのは長年天武朝を支えた、吉備真備であった。
処が宿奈麻呂と永手の二人は白壁王を指した。
そこで大市、浄三は辞退したが、真備が両王の皇継に固執区下が、宿奈麻呂が称徳の「遺勅」を読み上げ処、吉備は断念しその後真備は致仕をした。
何故吉備は白壁王の擁立に反対したか、また称徳の遺勅は本当にあったのか。  
旧体制天武系から、新体制の天智系に時代は大きく変わった。
何より称徳と道鏡の払拭に有った。
白壁王の擁立の裏側に、聖武の皇女井上内親王が白壁王妃であったことも、見逃せない、その間に他戸親王が白壁から引き継げば問題はないと見たのだろう。
それを計算した上の白壁王の即位だったことは明白である。
だが歴史は結局、その計算通りには行かず、歴史に未来の約束などは無い。
重臣の協議決定はその日の内に、白壁王の立太子、十七日には称徳の高野山陵に埋葬うされた。
そして道鏡を下野薬師寺別当に左遷、弟の浄人も土佐に配流し、吉備真備は致仕引退を余儀なくされて政界からその姿を消した。
時、真備七十八歳重要な役割を果たした吉備は長く政界にい過ぎたのだろう。


十八  光仁から桓武へ

①  天智系光仁天皇


宝亀元年(770)「宝亀」と元号も改まり、十月白壁王即位して、光仁天皇となる。時に六十二歳と老天皇の即位であった。
天武系の文武、元正、聖武、孝謙、淳仁と続き、天智系の皇孫に取り逆風であった。
白壁王に取り、皇継の政変の度に、如何に関わりを持たず身を守るかが、至難の業であった。皇権に微塵の野心もないと、言葉だけでは不充分であった。
さりとて天智の曾孫として、天智系の復活を望まないわけでもない。
記述に拠れば、「酒」に溺れる、狂人の振る舞いで装い、野心のないことを見せねば成らなかった。
耐えて、忍んでの皇位だった。即位の条件は、聖武の皇女井上内親王の立后であった。
翌年正月には井上内親王の生んだ「他戸親王」の立太子を定められた。
一方光仁は父施基親王に天皇の称号を贈り、翌年母紀靜橡姫に皇太后を追贈した。
それは自らの天智系の正統性と長年に渡る、疎外されて来た鬱積したものがあったのだろう。
政権は藤原北家、式家の主導で進められて行った。
処が年も経たないうちに、事件が起きたのである。
宝亀二年(771)二月、政権首班の藤原永手が死去し、替わって右大臣の清麻呂がなり、藤原良継と百川が発言力を増していった。
新政権が願っていた次期皇位は、他戸親王ではなく、弟の山部親王が内々に皇位に就く事を策略を練っていた。
何故なら、百川も良継も自分の娘が山部親王に嫁がせていたからである。
宝亀三年(772)三月二日、突如井上内親王が天皇を呪詛したと嫌疑がかかった。
その後皇后の地位から降ろされ五月には連座して他戸親王まで廃太子が決定された。

②  山部親王の擁立


明らかにこの井上皇后の呪詛の嫌疑は策略と思われるが、流れは山部親王に注がれていていたことは、否めない。
百川も良継らの政権に取り、天武系の血脈なぞはどうでも良かった。
百川の娘の旅子、良継の娘の乙牟漏が山部親王の皇子を生んでくれること願うだけだった。
それは天皇の外祖父になる為の布石であった。
翌年正月には山部親王が立太子になった、三十七歳、年齢的に思慮判別の出来る年齢になっていた。
久々の青年皇太子の誕生であった、その裏で井上内親王、他戸親王は大和国宇智郡に幽閉され、三年後にはこの世を去っている。
百川や良継によって闇のうちに葬られたのであろう。
周りの人々の同情からか、怨霊騒ぎが起きたと言う。
皇継を巡る興亡は熾烈で非情であった。
山部の母は世に知られている、皇孫始まって以来の異例だった、百済系の帰化人、「和乙継」の娘で、井上内親王の他戸親王と比べても成人していて、一定の人物評価が出来ていて、臣下の信頼があったのだろう。
以後山部が成人になってその地位が上がるにつれ、同じ百済系の人々に対する立場が好転していった。
中でも百済系で外祖母を出した「土師氏」はその恩恵を受けた。
土師氏はもともと、墓葬の携る一族であったが、土師氏の強い要請で、菅原氏への改姓が認められたれ、中央政界に進出できるように成れたのである。
もし土師氏の改姓が無ければ、菅原道真の官僚氏族の道はなかっただろう。
宝亀四年(773)十一月、東大寺造営の功労者の良弁が享年八十五歳で死去した。翌年長年に渡り政界に参画していた、吉備真備が享年八十一歳で死去した。
宝亀八年(777)九月に、藤原良継が享年六十二歳で没した。
翌々年の宝亀十年に藤原百川が四十八歳の若さで没した。
大きな新旧交代の時代に、一方東北政策の蝦夷の行動に不穏な知らせが平城京に届いた。五十年の宇合の蝦夷征圧で、小康状態だったが、その後伊冶城の完成と、一応治安は保たれて居た所、ここに来て、土豪伊冶砦麻呂が陸奥の鎮守の、紀広純を殺し、東北の需要な拠点多賀城まで攻略されては、積み上げてきた大和朝廷の威信と、東北政策の遅れとなる懸念があった。
現状回復が急務であったので、藤原継縄他、大伴益立、紀古佐美などを大挙兵を差し向けた。
しかし時、遅く連鎖は留まるところ知らず、蝦夷の人々の蜂起が広がり、入植した土豪、農民は離散し、城柵の立て直しに二、三年は架かろうかと思われた。歯切れの悪い陸奥政策に、光仁から桓武に引き継がれていった。
天応元年(871)四月光仁天皇、気力体力衰えて譲位十二月に崩御、享年七十三歳の高齢で没した。
光仁天皇ほど、皇権を巡り波乱に生き抜き、天平の歴史の生き証人であった。

③ 桓武天皇即位と川継失脚

桓武即位と同時に弟に早良親王が皇太子に律令国家では初例となった。
それは天智と天武の関係を思い浮かべ、一瞬不吉な思いと影を落とすものである。
桓武帝の即位には、聖武帝の皇女井上内親王の他戸親王が皇太子と後継者だったが、策略で失脚であった。
またも桓武が即位して一年も経たない内に起きたのが、氷上川継の変であった。
氷上川継は、父塩焼王は天武の孫、母不破内親王は聖武の皇女、申し分のない血筋だが父塩焼王は「押勝の乱」に巻き込まれ、破れ斬殺された。母は不破内親王は、称徳呪詛事件で流罪となったが、悲運な両親を持つ川継であった。
天応二年(782)川継の従者が、武器を持って宮中に乱入した事件が起きた。
従者が捕らえれて、その告白から、平城京に押入り、新帝桓武を廃して、川継を皇位にしようとの陰謀が発覚したという。
川継自らの皇位に就くことを望んだ意志か、臣下の不満から発したのか定かではない。
父塩焼王、母不破内親王の不遇は計り知れない。
度重なる、陰謀かはたまた川継が担ぎだされたのか、失脚し、配流された。

延暦三年(784)五月桓武は山城国で乙訓郡長岡村に行幸、長岡京の準備である。
新年の朝賀を新都で迎えたいと云う強い意志があった。
長き天武系の平城京の様々な思い出を払拭し、刷新するそんな重いが働いたのかも知れない。
この長岡京への視察には左大臣坂上田麻呂(坂上田村麻呂の父)他藤原子黒麻呂、藤原種継が同行、次世代を担う重臣が付き添い中でも種継の采配が目を引いた。
この新都造営に諸国より、百姓、民から延べ三十一万四千人の人夫が動員されたと言う。長岡京については新都移転の本格的な京城としての造営か、難波宮のような単なる副都としての造営かは定かではないが、不都合より新天地への移転の模索で大意は無かったのではと思われる。
立地条件を考えてみた場合は、大和盆地より日本の交通の要として、東海道、北陸道、山陽道、山陰道と利便性は良好である。
桓武の遷都の理由は記されていない、大義名分のない遷都は聖武と同じ単なる、思いつきか、謎に包まれたままである。
最大の理由として考えられるのは、山科に拠点とする百済系一族の影響かも知れない。

④ 種継暗殺事件

だが長岡京は結果的に順調に行かず、重臣や豪族、皇族の反対もあって、旨く行かず、また陣頭指揮に立つ藤原種継の反発もあって、進まなかった。
そこで起きた事件が、種継暗殺事件であった。
延暦四年(785)九月二十三日の夜に、長岡京の造営の陣頭指揮に当たっていた所、中納言藤原種継が、その身体に二本の矢に射抜かれて倒れ、翌日死亡すると言う、事件が起きた。
当時は「天皇はなはだ委任し、中外の事皆決を取る」と評判で寵愛されていた。
急遽長岡京に戻った桓武天皇は、早速犯人の逮捕を命じた。
犯人は大伴継人と判明、大伴継人は、鑑真を唐から、連れ帰る功績はあるが、父大伴古麻呂は橘奈良麻呂の変で拷問で殺されたと言うが。
この事件の直前に死去した大伴家持と一緒に、種継と仲の悪い、桓武天皇の弟の早良皇太子の了解の上殺害に及んだ他という。
いくら種継不仲とはいえ、この事件で早良は罪は逃れられない。
早良は東宮を出て、乙訓寺に幽閉されたが、自ら食を絶ち、船に乗せられ淡路に送られる途中で亡くなった。
実の弟の早良さえ、桓武天皇と実際は旨くいっていなかったのは、次ぎ後継者が、桓武帝の継子の安殿親王と、神野親王が潜在していてのことだった。
事件が、一段落して後に、安殿親王の皇太子の儀式が行われ、異母弟の大伴親王もこの年に誕生している。
新しい皇族が誕生しておく中、政権の勢力は、式家は没落し、替わって南家の嫡流の豊成の子継種が頭角を現してくるのである。
この頃の東北政策は、一向に改善の兆しが無く、東海、東山、坂東の軍兵五万二千人を投入、陸奥国多賀城に集結させたが、決着がつかなかった。
延暦十年(791)一方長岡京の最終整備段階で、諸国に対して、平城京の諸門を移築せよとの命令が出た。
まだその時点では長岡京を囲む溝や門が無く造営は遅れ気味であった。

⑤ 新都平安京への道

それに追い討ちを駆ける様に、延略十一年(792)六月、八月に長岡京一帯に大洪水が発生した。
平坦な地でなかった長岡京は、小高い丘が幾つにも重なり、丘陵は分断されて、壊滅的被害を受け、断念せざるをえない状態になった。
当時の人々は、早良の祟りだと信じだす者が表れて、淳和の母の旅子の死も、嵯峨、平城の母乙牟漏の死も、皇太子安殿親王の急病も、理不尽に早良を死に追いやった、祟りの噂が流れた。
桓武天皇も縁起の悪い新都構想も頓挫に、遷都は仕切りなおしと成った。
心機一転、桓武以下皆、もう平城京にはもどれない、そんな鎮通した気運の中、延略十二年(793)一月、あの八幡神の宣託で失脚した和気清麻呂が、新京候補を提唱した、山城国に気運が君臣と高まりを見せ。
「平安楽土」山城国葛野郡字大村に定められた。
和銅三年(710)都が平城京に遷都されて以来、八十四年間の奈良時代が幕が下ろされた。新時代、新天地に期待を寄せ「詔」を発した。
「葛野の大宮の地は、山川も麗しく、四方の国の百姓の参出来る事も便にして、云々」
「山勢実に前聞にかなう、と云々、この国は山河襟帯し、自然の城を作す、この形勝に因み新号を制すべし、宜しく山背の国を改め、山城の国と為すべし」
「新京楽、平安楽土、万年春」と祝い歌い踊ったという。
飛鳥、奈良と二百年余り、波乱に満ちた時代から、平安京で四百年の王朝絵巻を繰り広げるのである。




完 






参考資料
「日本の歴史」      講談社
「日本の歴史」      中央公論
「日本史年表」      岩波書店

2009年12月23日水曜日

”神仏霊場巡り  海神社


神仏霊場巡り   海神社
海神社は神戸はJR垂水駅の直ぐ前にあって、浜大鳥居は海から本殿に向かって、一直線にあり、「海神社」(わだつみ)名の通り海に関わる神である。祭神は底津綿津見神、中津綿津見神,上津綿津見神の三神に配神に大日孁貴尊(天照皇大神)由来に寄れば千数百年前に神功皇后が三韓征伐の還りの時に、暴風雨の為に御座船が進む事ができず、皇后自ら綿津見三神にお祭になり、祈願された所、たちまち波風が立ち無事に都に帰れたと言う。その場所に綿津見三神の社殿を建てられて鎮座されたのが由来である。この神功皇后に纏わる話は摂津では住吉大社、生田神社、廣田神社、長田神社と良く似た由来があるが、海神社の祭神の綿津見大神は伊弉諾神の子神で天照皇大神・素盞鳴尊と住吉三神とは綿津見三神は兄弟神である。これらの神徳に海に纏わる神として、漁業繁栄と航海安全の祈願の神社として信仰を集めている。